青空文庫より 人魚のひいさま
DEN LILLE HAVFRUE
ハンス・クリスティアン・アンデルセン Hans Christian Andersen
楠山正雄訳


姉・声はかぶりでも良いかも

キャラクター名は、1975年公開の東映名作アニメ「にんぎょ姫」
から拝借しております。

語り部  はるか、沖合へ出てみますと、海の水は、およそ美しいやぐるまぎくの花びらのように青くて、あくまで透き通ったガラスのように澄みきっています。
 その深い深い海の底に、海の乙女たち――人魚の仲間は住んでいるのです。

 姫様たちは、めいめい、花園の中に、小さい花壇を持っていて、そこでは、自由に、掘りかえすことも植えかえることもできました。

 ひとりの姫様は、花壇を、くじらの形につくりました。するともうひとりは、自分のは、かわいい人魚に似せたほうがいいと思いました。ところが、一番下のマリーナは、それを真ん丸く、そっくりお日さまの形にこしらえて、お日さまと同じようにまっ赤に光る花ばかりを咲かせました。

 マリーナは一人違って、不思議と物静かな、考え深い子でした。他のお姉様たちが、難船した船からとって来た珍しい品物を並べ立てて喜んでいるとき、マリーナだけは、美しい大理石の像を一つとって来て、大空のお日さまの色に似た、ばら色の花の下に、それを置いただけでした。それはまっ白にすきとおる石を刻んだ、可愛らしい少年の像で、難破して海の底にしずんだ船の中にあったものでした。
 
 マリーナにとって、海の上にある人間の世界の話を聞くほど、大きな喜びはありません。おばあさまにせがむと、船のことや、町のことや、人間や獣のことや、知っていらっしゃることはなにもかも話してくださいました。
おばあさま 「まあ、あなたたち、十五になったらね」
「そのときは、海の上へ浮かび出ていいおゆるしをあげますよ。そうすれば、岩に腰をかけて、お月さまの光にひたることもできるし、大きな船の通るところもみられるし、森や町だってみられるようになりますよ」
語り部  来年は、一番上のお姉様が、15になるわけでした。でも、他のお姉様たちは――そう、めいめい、一年ずつ年が違っていましたから、マリーナが、海の底からあがっていって、わたしたちの世界の様子を見ることになるまでには、まる5年も待たなければなりません。

 でも、一人が行けば、他の人たちに、初めて行った日、見たこと、その中で一番美しいと思った事を、帰って来て話す約束ができました。なぜなら、おばあさまのお話だけでは、どうも物たりなくて、姫様たちの知りたいと思う事が、だんだん多くなって来ましたからね。

 その中でも、マリーナは、あいにく、一番長く待たなくてはならないし、もの静かな、考え深い子でしたから、それだけ誰よりも深くこの事を思い続けました。
 いく晩もいく晩も、マリーナは、開いている窓ぎわに、じっと立ったまま、暗い藍色をした水の中で、お魚がひれやしっぽを動かして、泳ぎ回っているのを透かして,見ていました。
 お月さまと星も見えました。それはごく弱く光っているだけでしたが、でも水を透かして見るので、丘で私たちの目に見えるよりは、ずっと大きくみえました。
 
 時折、なにかまっ黒な影のようなものが、光を遮りました。それが、くじらが頭の上を泳いで通るのか、または大勢の人を乗せた船の影だという事は、マリーナにも判っていました。この船の人たちも、はるか海の底に人魚の姫様がいて、その白い手を、船のほうへ差し伸べていようとは、さすがに思いもつかなかったでしょう。
マリーナ 「ああ、あたし、どうかして早く15になりたいあ」
「あたしにはわかっている。あの上の世界でも、そこにうちをつくって住んでいる人間でも、あたしきっと好きになれるでしょう」
おばあさま 「さあ、いよいよ、あなたも、わたしの手を離れるのだよ」
「では、いらっしゃい、お姉様またちとおなじように、あなたにもおつくりをしてあげるから」
語り部  おばあさまは、白ゆりの花かんむりを、マリーナの髪にかけました。でも、その花びらというのが、一枚一枚、真珠を半分にしたものでした。それからまだおばあさまは、8つまで、大きなかきを、ひいさまのしっぽにすいつかせて、それを高貴な身分のしるしにしました。
マリーナ 「そんなことをおさせになって、あたし、痛いわ」
おばあさま 「身分だけに飾るるのです。少しは我慢しなければね」
マリーナ 「いってまいります」
10 語り部










 それは軽く、ふんわりと、まるで泡のように、水の上へのぼっていきました。
 ひいさまが、海の上に初めて顔をだしたとき、ちょうどお日さまは沈んだところでした。でもどの雲もまだ、ばら色にも金色にも輝いていました。
 そうして、ほの赤い空に、宵の明星が、それは美しくきらきら光っていました。空気はなごやかに澄んでいて、海はすっかり凪いでいました。そこに三本マストの大きな船が横たわっていました。風がないので、一本だけに帆が上げてあって、それをとりまいて、水夫たちが、帆綱《ほづな》や帆げたに腰をおろしていました。

 そのうち、音楽と唱歌の声がして来ました。やがて夕闇がせまってくると、何百とない色がわりのランプに火がともって、それは各国の国旗が、風になびいているように見えました。
 マリーナは、その船室の窓の所までずんずん泳いで行きました。波にゆり上げられる度に、マリーナは、水晶のように透き通った窓ガラスを透かして、中を覗くことができました。

 そこには、大勢、晴着《はれぎ》を着かざった人がいました、でも、その中で目立って一人美しいのは、大きな黒目をした若い王子でした。王子はまだ満十六歳より上にはなっていません。ちょうど今日がお誕生日で、この通り盛んなお祝をしている次第でした。水夫たちは、甲板で踊っていました。そこへ、若い王子が出て来ると、何百とない花火が打ち上げられて、これが昼間のように輝いたので、マリーナはびっくりして、いったん水の中に沈みました。

 けれどまたすぐ首をだすと、もうまるで大空の星が、一度に落ちかかって来るように思われました。
 でも、まあ、若い王子の本当に立派なこと。王子は誰とも握手をかわして、にぎやかに、またにこやかに笑っていました。そのあいだも、音楽は、この晴れがましい夜室に響き続けました。

 夜がふけてていきました。それでも、マリーナは、船からも、そこの美しい王子からも、目を離そうとははしませんでした。色ランプは、とうに消され、花火ももう上がらなくなりました。祝砲もと轟かなくなりました。
 マリーナは、やはり水の上に乗っかって、上に下にゆられながら、船室のなかを覗こうとしていました。でも、船はだんだん早くなり、帆は一枚一枚はられました。
 
 やがて波が高くなって来て、大きな黒雲がわきだしました。遠くで稲妻が、光りはじめました。恐ろしい嵐になりそうです。それで水夫たちは驚いて、帆をまき上げました。

 大きな船は、荒れる海の上をゆられゆられ、飛ぶように走りました。波が大きな黒山のように高くなって、マストの上にのしかかろうとしました。けれど、船は高い波と波のあいだを、白鳥のように深くくぐるかと思うと、またもりあがる高潮の上につき上げられてでて来ました。
 
 これは人魚すると、なかなかおもしろい見ものでしたが、船の人たちはそれどころではありません。船はぎいぎいがたがた鳴りました。さしも頑丈な船板も、ひどく横腹を当てられて曲りました。マストは真ん中からぽっきりと、もろく折れました。船は横倒しになって、波がどどっと、所かまわず船に流れ込みました。

 ここで初めて、マリーナも、船の人たちの身の上の危ない事が分かりました。そればかりか自分も、水の上に押し流された船のはりや板きれにぶつからないよう用心しなければなりませんでした。
 墨を流したような闇夜になって、まるで物が見えなくなりました。するうち、稲光がしはじめるとまた明るくなって、船の上の様子が手にとるように判りました。

 皆どうにかして助かろうとしてあがいていました。若い王子の姿を、マリーナは探し求めて、それがちらりと目にはいったとたん、船が二つに割れてて、王子も海の底深く沈んで行きました。はじめのうち、マリーナはこれで王子が自分の所へ来てくれると思って、すっかり楽しくなりました。でも、すぐに、水の中では、人間が生きていけないことを思いだしました。この人を死なせるなんて、とんでもないことです。
 
 そこで、波の上に漂うはりや板きれをかきわけかきわけ、万一、ぶつかって潰されることなぞ忘れて、夢中で泳いでいきました。
 いったん水の底深く沈んで、また高く波のあいだに浮きあがったりして、やっと、若い王子の所まで泳いでいけましたが、王子は、もうとうに荒れ狂う海の中で、泳ぐ力が無くなっていて、美しい目も閉じていました。マリーナが、そこへ来てくれなかったら、死ぬところだったでしょう。
 マリーナは、王子の頭を水の上に高くささげて、あとは、波が、自分と王子とを、好きな所へ運ぶままにまかせました。
 その明け方、酷い嵐もやみました。船のものは、木ッぱ一切れ残ってはいませんでした。お日さまが、真赤に輝きながら、高々と海の上に昇るとと、それと一緒に、王子の頬にもさっと血の気がさしてきたように思われました。

 でも、目は閉じたままでした。マリーナは、王子の高い、立派な額に頬をつけて、濡れた髪の毛をかき上げました。こうして見ると、海の底の、あの可愛い花壇にすえた大理石の像に似ていました。
 マリーナは、もういっぺん頬付けして、どうか命のありますようにと願っていました。
 高い、青い山山の頂きに、ふんわり雪が積もって、きらきら光っているのが、ちょうど白鳥が寝ているようでした。その麓の浜ぞいには、美しい森が繁っていて、森を後ろに、お寺か、修道院かよくわからないながら、建物がひとつ立っていました。

 レモンとオレンジの木が、繁っていて、門の前には、背の高いしゅろの木が立っていました。海の水はそこで、小さな入江をつくっていて、それは鏡のように平らなまま、ずっと深く、中州のところまで入りこんでいて、そこに真っ白に、こまかい砂が、盛り上がっていました。マリーナは、王子を抱いてそこまで泳いでいって、頭の所を高くして、砂の上に寝かせました。これは暖かいお日さまの光のよくあたるようにという、優しい心づかいからでした。

 その時、そこの大きな白い建て物の中から、鐘が鳴りだしました。そうして、その園を通って、若い少女たちが大勢、そこへでて来ました。そこで、マリーナは、ずっと後ろの水の上に、いくつか岩の突き出ている所まで泳いでいって、その陰に隠れました。誰にも顔の見えないように、髪の毛にも胸にも、海の泡をかぶりました。こうして王子のそばへ、誰かがやってくるか、気をつけて見ていました。

 まもなく、ひとりの若い娘が、そこへ来ました。娘は大変驚いたようでしたが、すぐ、他の人たちを連れて来ました。マリーナが見ていますと、王子は命をとりとめたらしく、回りをとりまいている人たちに、にっこり微笑みかけました。
 けれど、マリーナの方へは笑顔を見せませんでした。マリーナに助けてもらったことも、王子はまるで知りませんでした。
マリーナは、悲しく思いました。そのうち、王子は、大きな建てものの中へ運ばれていってしまうと、マリーナ、切ない思いをしながら水に沈んで、そのまま、おとうさまの御殿へ帰っていきました。

 晩に、朝に、幾たびとなく、マリーナは、王子を置いて来た浜近く上がっていって見ましたけれども、マリーナは、もう王子の姿を見ることはありませんでした。そうして、その度に、いつもよけい切ない思いで帰って来ました。こうなると、ただひとつの楽しみは、例のの小さな花壇の中で美しい王子に似た大理石の像に、両腕をかけることでした。

 とうとう、いつまでもこうしているのが、マリーナには耐えられなくなりました。それで、ひとりのお姉様にうちあけますと、やがて、ほかのお姉様たちの耳にもはいりました。でも、この姫様と、その他に二、三人の、人魚たちの他、誰も知るものはなく、ただごく仲のいいお友だちのあいだでその話をしただけでした。
 ところで、そのお友だちの内に、ひとり、王子を知っている娘がありました。それから、あの晩、船の上でお祝のあったことも見ていました。その娘は、王子がどこから来たひとで、その王国がどこにあるかということまで知っていました。

 「さあ、いってみましょうよ」と、お姉様たちは、マリーナを誘いました。そうして、お互い腕を肩にかけて、ながい列を組んで、海の上に浮き上がりました。そこは王子の御殿のあると聞いた所でした。

 その御殿は、クリーム色に光をもった石で建てたものでしたが、そこのいくつかある大理石の階段のうち、ひとつはすぐ海へ降りるようになっていました。平屋根の上には、一段高く、金メッキした立派な円屋根がそびえていました。

 建物のぐるりをかこむ円柱《まるばしら》の間に、いくつも大理石の像が、生きた人のように並んでいました。高い窓にはめ込んだ明るいガラスを透かすと、なかの立派な広間が見えました。その広間の壁には、高価な絹のとばりや壁かけがかかっていました。壁という壁は、名作の画で飾られていて、みる人の目を楽しませました。こういう広間のいくつかある中の、一番の大広間の真ん中に、大きな噴水が噴き出していて、そのしぶきは、ガラスの円天井まで上がっていましたが、その天井からは、お日さまがさしこんで、噴水の水と大水盤《すいばん》のなかに浮いている、美しい水草の上にきらきらしていました。

 こうして王子の城がわかると、それからは、もう夕方から夜にかけて、毎晩のように、そこの水の上に、マリーナはでてみました。もうほかの人魚たちの行かない丘ちかくの所までも、泳いでいきました。ついには、せまい水道の中にまでくぐって、その長い影を水の上に投げている大理石の露台《ろだい》の下までも行ってみました。そこにじっといて、見上げると、若い王子が、自分ひとりいるつもりで、明るいお月さまの光の中に立っていました。

 夕方、たびたび、王子はうつくしいヨットに帆をはって、音楽をのせて、風に旗を吹きなびかせながら、海の上を走らせるところを、マリーナは見ました。マリーナは、それを青青と繁ったあしの葉の間から覗き見ました。すると風が来て、マリーナの銀色した長いヴェールをひらひらさせました。たまにそれを見たものは、白鳥が翼を広げたのだと思いました。

 夜な夜な、船にかがり火をたいて、漁に出る漁師たちからもマリーナは度々、若い王子の良い噂を聞きました。そうして、その人が波の上に死にかけて漂っている所を、自分が救ったのだと思って嬉しくなりました。それから、あの時、王子の頭は、なんておだやかにあたしの胸の上にのっていたことかしら、それをあたしはどんなに心をこめて、頬ずりしてあげたことかしらと思っていました。そのくせ、王子の方では、無論そういう事をまるで知りませんでした。つい、夢にすら見てはくれないのです。

 だんだん人間というものが、尊く思われて来ました。だんだん、どうかして人間の仲間に入って行きたいと、願うようになりました。そこで、おばあさまに伺うことにしました。このあばあさまはさすがに、上の世界のことをずっとよく知っておいでになりました。上の世界というのは、このおばあさまが、海の上の国ぐにに名づけたものでした。
マリーナ 「ねえ、おばあさま、人間は、水に溺れさえしなければ、いつまででも生きられるのでしょう。あたしたち海の底の者のようには死なないのでしょう。」
おばあさま 「どうして?」
「人間だって、やはり死ぬのですよ。わたしたちよりも、かえって寿命は短いくらいです。わたしたちは三百年まで生きられます。ただ、いったん、それが終わると、それなり、水の上の泡になって、おたがい睦まじくして来た人たちの中に、お墓ひとつ残しては行けません。わたしたちには、死なない魂というものがないのです」

「次の世に生まれ変わるということが無いのです。いわば、あの緑色したあしのようなもので、いちど刈りとられると、もう二度と青くなることがないのです。でも、人間には魂というものがあって、それがいつまででも生きている、体が土に還ってしまったあとでも、魂は生きている。それが、澄んだ大空の上にのぼって、あのきらきら光るお星さまの所へまでものぼって行くのです」

「丁度、わたしたちが、海の上にうき上がって、人間の国を眺めるように、人間の魂は、わたしたちにとても見られない、知らない神さまのお国へうかび上がっていくのです。」
マリーナ 「なぜ、あたしたち、死なない魂を授からなかったの?」
「あたし、なん百年の寿命なんてみんな捨ててしまってもいいわ。その代わり、たった一日でも人間になれて、死んだあとで、その天国という世界へ昇る幸せをわけてもらえるならね」
おばあさま 「まあ、そんなことを思うものではありません」
「わたしたちは、あの上の世界の人間なんかより、ずっと幸せだし、ずっといいものなのですから」
マリーナ 「でも、あたし、やはり死んで泡になって、海の上に浮いて、もう波の音楽も聞かれないし、もう綺麗な花も見られないし、赤いお日さまも見られなくなるのですもの。どうにかして、長い命の魂を、さずかる工夫ってないものかしら」
おばあさま 「それはありません」

「でもね、こういう事はあるそうですよ。ここにひとり人間がいて、あなたひとりを好きになる。そう、その人間にとっては、あなたという者が、お父様やお母様よりも良いものになるのです」

「そうして、ありったけの真心と情けで、あなたひとりの事を思ってくれる。そこで、神父さまが来て、その人間の右の手をあなたの右の手にのせて、この世も、長い長い命の世も変わらない、かたい約束を立てるのです。そうなると、その人間の魂があなたの体の中に流れ込んで、その人間の幸せを分けてもらえることになるというのです」

「しかも、その人間はあなたに魂を分けても、自分の魂は無くさずに持っているというのです。でも、そんなことは決してありません。この海の底の世界で何より美しいものにしているお魚のしっぽを、地の上では醜いものにしているというのだすから。それだけの善し悪しすら、向こうは判らないのだから、無理に二本、不器用な、つっかい棒みたいなものを、代りに使って、それに足という名をつけて、それでいいつもりでいるのですよ」
語り部  そういわれて、マリーナも、いまさらため息しながら、じぶんのおさかなの尾にいじらしくながめ入りました。
おばあさま 「さあ、陽気になりましょう」

「せっかく授かることになっている三百年の寿命です。その間は、好きに踊ってはねて暮らすことです。それだけでもずいぶん長い一生ですよ。それだけに、あとはきれいさっぱり、安心して休めるというものです。今夜は宮中舞踏会を開きましょう」
語り部  さて、この舞踏会が、なるほど、地の上の世界では見られない豪華なものでした。

 丁度、広間のまん中のところを、ひとすじ、大きく緩やかな海の流れが貫いている、その上で、男の人魚たちと女の人魚たちとが、人魚だけの持っている優しい歌の節で踊っていました。こんな美しい歌声が、地の上の人間にあるでしょうか。
 
 マリーナは、その中でも、誰およぶ者のない美しい声で歌いました。みんな一度にに手を叩いて、その歌をほめそやしました。マリーナは心が浮かれました。それは、地の上はもちろん、海のなかにもまた二人とない美しい声を、自分が持っていることが分かったからでした。
 
 でも、上の世界の事を考えるいつものくせに引きこまれました。あのうつくしい王子の事を忘れる事はできませんし、あの人と同じ、死なない魂を持っていないことが心を苦しめました。そこで、こっそり、マリーナは、おとうさまの御殿を抜け出しました。そうして、誰もそこで、歌って、陽気に浮かれている間に、自分ひとり、例の小さい花壇の中に、しょんぼりすわっていました。その時、ひとこえ角笛の響きが、海の水を渡って来ました。その音《ね》を聞きながら、マリーナは思いました。
20 マリーナ 「ああ、今頃、あの方はきっと、帆船《ほぶね》を走らせていらっしゃるのね。本当に、お父様よりもお母様よりももっと好きなあの方が、始終あたしの心から離れないあの方が、そのお手にあたしの一生の幸福を捧げようと願っているあの方が、あそこにいらっしゃるのね」

「あたし、死なない魂が手に入るものなら、どうにかして、どんな事でもしてみるわ。そうだ、お姉様たちが、御殿で踊っていらっしゃるうちに、あたし、海の魔女の所へ行ってみよう。いつもはずいぶん怖いのだけれど、でもきっと、海の魔女なら相談相手になって、いい知恵を貸してくれるでしょう」
語り部  そこで、マリーナは、花園をでて、ぶつぶつ泡立つうず巻の流れの中へ向かって行きました。このうず巻の向こうに、魔女の住まいがありました。こんな道を通るのは初めてのことでした。そこには花も咲いておらず、藻草《もぐさ》も生えていません。ただ剥き出しな灰色の砂地が、うずの流れの所まで続いていて、その流れは唸りを立てて、水車の車輪のようにくるくる回っていました。

 そうして、このうず巻の中に入って来る者は、なんでも捕まえて、粉々に砕いて、深い淵に引き込みました。この激しい渦の流れの、しかもまん中を通って行く他に海の魔女の領分《りょうぶん》にはいる道はありません。
 
 やがて、マリーナは、森の中の広場のぬるぬるすべる沼のような所へ来ました。そこには脂ぶとりに太った水へびが、くねくねといやらしい白茶けた腹をみせていました。この沼の真ん中に、難船した人たちの白骨でできた家がありました。その家に、海の魔女は座っていて、一匹のひきがえるに、口移しで食べさせているところでしたが、その様子は、人間がカナリヤの雛にお砂糖をつつかせるのに似ていました。あのいやらしく、肥ぶとりした水へびを、魔女はまた、うちのひよっ子と名をつけて、じぶんのぶよぶよ大きな胸の上で、かってにのたくらせていました。
海の魔女 「用件は判っているよ」

「馬鹿な事を考えているね。だが、まあ、やりたいようにする他は無いだろうね、その代わり、美しいマリーナ、その男ではさぞ辛い目を見ることだろうよ」

「マリーナ、お前さは、そのお魚のしっぽなんかどけて、かわりに二本のつっかい棒をくっつけて、人間のような格好で歩きたいと思っているんだろう。それで若い王子を釣って、ついでに死なない魂まで、手に入れようって魂胆だろう」

「ウヒヒヒヒヒヒ・・・・お前さん、丁度いい時に来たよ。明日の朝、日が出てしまうと、もうその後では、また一年回ってくるまで、どうにもしてあげられないところだったよ。では、薬を調合してあげるから、それを持って、日の出る前、丘の所まで泳いで行って、岸に上がって、それを飲むのだよ。すると、お前さんのそのしっぽが消えてなくなって、人間が可愛い足と、名をつけている物に縮まるのさ」

「だが、その時、お前は鋭い剣を、体に刺し込まれるよう死ぬほどの痛みを受けるだろう。
しかし、出合った者は、誰だって、お前さんの事を、こんな綺麗な人間の娘を見たことが無いと言うだろう。お前さんが浮くように軽く足を運ぶ所は、人間の踊り子に真似もできまい。ただ、ひと足ごとに、お前さん、鋭い刄物を踏むようで、いまにも血が流れるかと思うほどだろうよ。それをみんな我慢するつもりなら、相談にのって上げるよ」
マリーナ 「・・・ええ、しますわ」
海の魔女 「でも、覚えておいで」
「マリーナ、お前さんは、一度人間のかたちになると、もう二度と人魚には戻れないんだよ。海の中を潜って、姉妹たちの所へも、お父さんの御殿へも帰る事は出来ない」

「王子の愛情にしても、もうお前さんのためには、王様のことも王妃様のことも忘れて、明けても暮れてもお前さんの事ばかりを、考えて、もうこの上は、神父に頼んで、王子とお前さんと二人の手を繋いで、晴れて夫婦と呼ばせることにする他ない、というところまでいかなければ、死なない魂は、お前さんの物にはならないのだよ」

「もし王子が他の女と結婚するような事になると、あくる朝には、お前さんの心臓は破れて、お前さんは泡になって海の上に浮くのだよ」
マリーナ 「かまいません」
海の魔女 「わかった。ところで、お前さんには礼もたっぷりもらわなきゃならないよ」

「わたしの望むお礼は、生半可な事ではないよ。お前さんは、この海の底で、誰一人およぶ者のない美しい声を持っておいでだね。その声で、たぶん、王子を迷わそうと思っているのだろうが、その声をわたしはもらいたいのだよ」

「お前さんの持っている一番良いものを、わたしの大事な秘薬とひきかえにしようというのさ。なにしろその薬には、わたしだって、自分の血を混ぜなくてはならないのだからね」

「それで、薬にも、もろ刄のつるぎのような鋭い効き目が表れようというものさ・・・フフフフフフフ・・・」
マリーナ 「でも、あたし、声をあげてしまったら・・・あとに何が残るのでしょう」
海の魔女 「なあに、まだ、その美しい姿があるじゃないかえ・・・」

「それに、その軽い、浮くような歩き方が、それから、ものをいう目があるさ。それだけで、立派に人間の心をたぶらかすことはできようというものだ」

「はてね、勇気がなくなったかね。さあ、舌をお出し、それを代金にはらってもらう。そのかわり、よく効く薬をさし上げるよ」
マリーナ 「・・・ええ、そうしてください」
30 語り部  海の魔女は、お鍋を火にかけて、魔法飲み薬を煮はじめました。
海の魔女 「物を綺麗にするのは、いいことさ」
語り部  海の魔女は蛇をくるくると結びこぶに丸めて、それでお鍋を磨きました。それから自分の胸をひっかいて、黒い血をだして、その中へたらしこみました。その湯気が、なんともいえない不思議な気味の悪い形で、むくむくと立って、身の毛もよだつようでした。

 やがて、ぼこぼこ煮え立ち、とうとう、飲み薬が煮え上がりましたが、それはただ、すみ切った水のように見えました。
海の魔女 「さあ、できたよ」
語り部  海の魔女は飲み薬を渡して、代りにマリーナの舌を切りました。もうこれで、ものもいえず、歌もうたえなくなったのです。
海の魔女 「もしか、帰り道に、森の中を通って、さんご虫どもに捕まりそうになったらね、この薬りをたった一滴でいい、たらしておやり、そうすると、やつら、腕も指もばらばらになってとんでしまうよ・・・フフフフフフ・・・」
語り部  けれどマリーナは、そんなことをしないでもすみました。さんご虫は、マリーナの手の中で、星のようにきらきらする飲み薬を見ただけで、おじけて引っこみました、それで、苦もなく、森もぬけ、渦巻きの流れもくぐってかえりました。

 そこに、お父様の御殿が見えました。大きな舞踏の間も、もう灯りが消えていました。きっともう、みんな寝たのでしょう。切なくて、胸がはりさけるようでした。そっと、花園にはいって、お姉様たちの花壇から、ひとつずつ花を摘み取って、御殿のほうへ、指で、もうなんべんとしれないほど、おわかれのキッスをなげたのち、暗い藍色の海をぬけて、上へ上がっていきました。

 マリーナが、王子のお城をみつけて、そこの立派な階段を上がっていったとき、お日さまはまだ昇っていませんでした。お月様だけが、美しく冴えていました。マリーナは、焼きつくように、つんと強い薬を飲みました。すると、華奢な節々に、鋭いもろ刄の剣を、きりきり突きとおされたように感じて、気が遠くなり、死んだようになって倒れました。

 やがて、お日様の光が、海の上に輝きだしたとき、マリーナは目が覚めました。とたんに、切り裂かれるような痛みを感じました。けれど、もうその時、すぐ目の前には、美しいフィヨルド王子が立っていました。王子は、うるしのような黒い目でじっとマリーナを見つめていました。はっとして、マリーナは目を伏せました。

 すると、あのお魚のしっぽは、綺麗に無くなっていて、若い娘だけしかないような、それはそれは可愛らしい、まっ白な二本の足とかわっているのが、目にはいりました。でも、まるっきり、体を覆うものが無いので、マリーナは、ふっさりと濃く長い髪の毛で、それをかくしました。
 王子はその時、一体、あなたは誰かどこから来たのかといって、尋ねました。マリーナは、王子の顔を、優しく、でも、あくまで悲しそうに、その濃い藍色の目で見上げました。もう、口をききたくもきけないのです。

 そこで、王子はマリーナの手をとって、お城の中へ連れていきました。なるほど、魔女があらかじめ言い聞かせていたように、マリーナは、ひと足ごとに、尖った針か、鋭い刄物の上を踏んで歩くようでしたが、いさんで、それを堪えました。王子の手にすがって、マリーナは、それこそシャボン玉のように軽く上がっていきました。すると、王子もおつきの人たちもみんな、マリーナのしなやかな、軽い足どりを不思議そうに見ました。

 マリーナは、絹とモスリンの高価な着物をいただいて着ました。お城の中では、誰一人およぶもののない美しさでした。けれど、歌をうたうことも、ものを言うこともできません。絹に金のぬいとりした着物を着かざった美しい踊り子たちがでて来て、王子と、王子のご両親の王さま、お妃様のご前で歌をうたいました。
 そのなかで一人、誰よりもひときわ上手によく歌う女があったので、王子は手をたたいてやって、そのほうへにっこり笑いかけました。でも、マリーナは、自分なら、はるかずっといい声で歌えるのにと思って、悲しくなりました。
マリーナ 『ああ、王子様のおそばに来たいばかりに、あたしは、未来永劫、声を捨ててしまったのです。せめて、それがおわかりになったら・・・」
語り部  今度は、踊り子たちが、それは結構な音楽に合わせて、しとやかに、軽い足どりで、踊りました。すると、マリーナも、美しい白い腕をあげて、つま先立ちして、誰にも真似のならない軽い身のこなしで、床の上をすべるように踊り歩きました。ひとつひとつ、仕草を重ねるにしたがって、このマリーナの世にない美しさが、いよいよ目に立ちました。その目の働きは、踊り子たちの歌と比べ物にならない、深い意味を、見る人びとの心に語っていました。

 そこにいた人たちは、誰も、酔ったようになっていました。マリーナは、いくらでも踊り続けました。そのくせ地に足が触れる度に、鋭い刄物の上を踏むようでした。王子は、いつまでも自分の所にいるようにと言って、すぐ自分の部屋の前の、ビロードの部屋に寝ることを許しました。

 王子は、マリーナを馬に乗せて、いい匂いのする森の中を、馬で歩きました。すると、緑の濃い木の枝が、ふたりの肩にさわったり、小鳥たちが、みすみずしい葉かげで歌をうたいました。マリーナは、王子について、高い山にも登りました。そんな時、華奢な足から血が流れて、他の人たちの目につくほどになっても、マリーナは笑っていました。そうして、どこまでも王子にくっついていって、雲が、よその国へ渡っていく鳥の群れのように、飛んでいるところを、はるか目の下に眺めました。

 王子のお城の中にいるとき、夜な夜な、他の人たちの眠っている間に、マリーナは、大理石の階段の上に出ました。そうして、燃えるような足を、冷たい海の水にひたしました。そうしているうち、はるか下の海の底の、別れて来た人たちのことが、心にに浮かんで来ました。

 そういう夜の続いている、ある晩、夜深く、人魚のお姉様たちが、手を繋ぎあってでて来ました。波のうえに浮きながら、お姉様たちは、悲しそうに歌いました。マリーナが手まねきして知らせると、向こうでも見つけて、あちらでは、みんな、どんなに寂しがっているか話して聞かせました。それからは、毎晩のように、このお姉様たちはでて来ました。
 もう何年とない久しい前から、海の上にでておいでにならなかったおばあさまの姿を、遠くで見つけました。冠をのせたお父様の人魚の王さまも、ご一緒のようでした。おばあさまも、お父様も、マリーナの方へ手をさしのべましたが、お姉様たちのようには、思い切ってて丘近くへ寄りませんでした。

 日が経つにつれて、王子はだんだんマリーナが好きになりました。王子は、心の素直な、可愛い子供をかわいがるように、マリーナを可愛がりました。けれど、マリーナを、お妃にしようなんという事は、まるっきり心に浮かんだ事がありません。でも、マリーナは、どうしても王子のお妃にしていただかなければ、もう死なない魂の授かる道はありません。そうして、王子が他のお妃を迎えた次の朝、海の泡になって消えなければなりませんでした。
マリーナ 『わたくしを、誰よりも一番可愛いとはおおもいにならなくて・・・』
40 フィヨルド王子 「そうとも、一番可愛いとも」

「だって、君は誰よりも一番優しい心を持っているし、一番、僕を大事にしてくれる。それに、僕がいつか会った事があって、それきりもう二度とは会えないと思う娘によく似ているんだよ」

「僕はある時、船に乗って、難破したことがあった、波が僕を、ある教会の近くの浜にうち上げてくれた。その教会には大勢、若い娘たちが、お勉めしていた。その中で一番若い子が、僕を浜で見つけて、命を助けてくれた。僕は、その子を二度見ただけだった。その子だけが、僕のこの世の中で好きだと思った唯一人の娘だった」

「君がその娘に生きうつしなんだ。あまり似ているので、ぼくの心に残っていた先の娘の姿が、今ではどうやら遠くに押し退けられそうだ。その娘は、教会に仕えている娘だから、僕の幸運の神様が、その子のかわりに、君を僕のところへよこしてくれたのだ。・・・いつまでも一緒にいようね」
マリーナ 『ああ、王子様は、王子様のお命を助けたのは、このあたしだということをお知りにならないのね』

『あたし、王子様を抱えて海の上を、教会のある森の所まで運んであげたのに・・・。あたし、その時、泡の影にかくれて、誰か人は来ないか見ていたのだわ。王子様が、あたしよりもっと好きだとおっしゃるその美しい娘も、見て知っている』

『でも、その娘さんは、教会に仕えている身だから、世の中へ出てくることはないと、王子様はおっしゃった。おふたりの会うことはきっともう無いいのね。あたしはこうして王子様のお側にいる。毎日、王子様のお顔を見ている。あたし、王子様をよくいたわってあげよう。王子様に優しくしよう、あたしの命を、王子様に捧げよう』
語り部  ところが、そのうちに、王子がいよいよ結婚することになった、お隣の王国の綺麗なお姫さまをお妃に迎えることになった、という噂が立ちました。そのために、王子さまは、りっぱな船を一艘、おしたてさせになったとも言いました。

 今度の王子の旅行は、おもてむき、お隣の王国を見学にいかれるということになっているけれど、実は王さまのお姫さまに会いに行くのだということでした。沢山のおともの人数も決まっていました。でも、マリーナは、頭をふって、にっこりしていました。

王子の心は、たれよりもよく、マリーナに分かっているはずでした。
フィヨルド王子 「僕は旅をしなければならないよ」

「綺麗な王女のお姫さまに会いに行くのさ。お父様とお母様のお望みでね。だが、ぜひともそのお姫さまを僕のお嫁にもらって来いというのではないよ。だが、僕はそのお姫さまが好きにはなれないよ。・・・君がそれにそっくりだといった、あの教会の綺麗な娘には似ていないだろうからね。そのうち、どうしてもお嫁選びをしなければならなくなったら、僕はいっそ君を選ぶよ。口はきけないかわり、ものをいう目をもっている、ひろい娘の君をね。」
語り部 こういって、王子は、マリーナのあかい唇にキスをしました。それから長い髪の毛をいじって、その胸に顔をおしつけました。それだけでもうマリーナの心には、人間に生まれた幸福と、死なない魂の事が、夢のように浮かびました。

 船はお隣の王様の国の、きらびやかな都の港に入っていきました。町のお寺の鐘が、一斉に鳴りだしました。そこここの高い塔で、大らっぱを吹きたてました。そのなかで兵隊が、旗を立てて、銃剣をひからせて行列しました。

 さて、それからは、毎日、なにかしらお祝ごとの催しがありました。舞踏会だの、宴会だの、それからそれと続きました。でも王様のお姫様は、まだ姿を見せません。噂では、どこか遠い所の、ある尊いお寺に預けられていて、そこで王妃たるべき人の一切の道を、修めておいでになるということでした。するうち、そのお姫さまもやっとお帰りになりました。
 マリーナ、いったいどんなに美しいのか、早くその人を見たいものだと、気にかかっていましたが、いま見て、いかにも人柄の優美なのに、感心せずにはいられませんでした。肌は美しく透きとおるようですし、長いまっ黒なまつ毛の奥には、深い青みを持った、貞実《ていじつ》な目が優しく笑《え》みかけていました。
フィヨルド王子 「あなたでしたよ」

「そう、あなたでした。ぼくが死んだも同様で海岸にうち上げられていたとき、救ってくださったのは」

「ああ、ぼくはあまりにも幸福すぎる・・・」
「最上の望みが、しょせん望んでもむだだと諦めていたそれが、見事かなったのだもの、君は、ぼくの幸福を喜んでくれるだろう、だって君は、どの誰にも勝って、僕の事を親身に思っていてくれたのだから・・・」
語り部  マリーナは、王子の手に唇をあてましたが、心臓は今にも破れるかと重いました。ふたりのご婚礼のあるあくる朝は、マリーナ死んで、泡になって、海の上に浮く日でしたものね。

 お寺の鐘が、カンカン鳴りわたりました。先ぶれは町じゅう馬をはしらせて、ご婚約のことを知らせました。あるかぎりの祭壇には香油《こうゆ》が、もったないような銀のランプの中で燃えていました。坊さんたちが香炉《こうろ》をゆすっているなかで、花嫁、花婿は手をとりかわして、大僧正《だいそうじょう》の祝福をうけました。

 マリーナは、絹に金糸の晴れの衣裳で、花嫁の長い裾をささげて持ちました。でも、お祝の音楽も聞こえません。儀式も目にうつりません。マリーナは、うわの空で、いちずに、くらい死の影を追いました。一切この世で無くしてしまったもののことを思いました。

王子を見るのも、今夜かぎりということを、マリーナは知っていました。この人のために、マリーナは、親きょうだいをも、ふるさとの家をも、ふり捨てて来ました。せっかくの美しい声もやってしまったうえ、くる日もくる日も、果てしない苦しみにたえて来ました。そのくせ、王子の方では、そんな事があったとは、夢にも思ってはいないのです。本当に、その人と同じ空気を吸っていて、深い海と星月夜の空をながめるのも、これが最後の夜になりました。

 この一夜過ぎればば、ものを想うことも、夢を見ることもない、長い長い闇が、魂を持たず、ついに持つことのできなかった、マリーナを待っていました。船の上では、誰もも陽気に楽しくうかれて、真夜中過ぎまでもすごしました。そのなかで、マリーナは、心では、死ぬことを思いながら、一緒に笑って踊りました。王子が美しい花嫁に唇をつけると、王女は王子の黒い髪をいじっていました。そうして、手をとりあって、きらびやかな天幕《てんまく》のなかへ入りました。

 船の上は、ひっそり人音もなくなりました、ただ、舵《かじ》とりだけが、あいかわらず、舵をひかえて立っていました。マリーナは、船のへりにその白い腕をのせて、赤らんでくる東の空をじっとながめていました。そのはじめてのお日さまの光が、じぶんを殺すのだ、とマリーナは思いました。その時ふと、お姉さまたちが、波の中かから出てくるのが見えましたが、誰ももマリーナまと同じように、青い顔をしていました。しかも、その美しい髪の毛も、風になびかしてはいませんでした。それは綺麗に切りとられていました。
「あたしたち、髪を魔女にやってしまったのよ、あなたを助けてもらおうと思ってね。どうしてもあなたを今夜かぎり死なせたくないもの。

 すると魔女が、ほら、このとおり、短刀をくれたの。ごらん、ずいぶんよく切れそうでしょう。お日さまの昇らないうち、これで王子の胸をぐさりとやれば、その暖かい血が足にかかって、それがひとつになって、おさかなの尾になるの」

「すると、あんたはまたもとの人魚の娘になって、海の底のあたしたちの所にかえれて、このまま死んで塩からい海の泡になるかわりに、このさき三百年生きられるでしょう。さあ、早くしてね。王子が死ぬかあなたが死ぬか、お日さまの昇るまでに、どちらかに決めなくてはならないのよ」

「おばあさまは、あまりおなげきになったので、白いお髪《ぐし》が抜け落ちておしまいになったわ。あたしたちの髪の毛が魔女のはさみで切りとられてしまったようにね。王子を殺して、かえっておいでなさい。早くしてね。ほらもう、あのとおり空に赤みがさして来たわ。もうすぐ、お日さまが昇ってくるわ。すると、いやでも死ななくてはならないのよ。」
語り部  マリーナは、天幕にたれた紫のとばりをあけました。美しい花嫁は、王子の胸に頭を乗せて、休んでいました。マリーナは、腰をかがめて、王子の美しい額に、そっと唇をつけました。東の空をみると、もう明け方のあかね色がだんだんはっきりして来ました。

 マリーナは、その時、鋭い短刀の切っ先をじっとみて、その目を再び王子の上にうつしました。王子は夢をみながら、花嫁の名を呼びました。王子の心の中には、花嫁のことだけしかありません。短刀は、人魚のひいさまの手の中で震えました。――でも、そのとき、マリーナは短刀を波間遠く投げ入れました。投げた所に赤い光がして、そこから血の雫が吹き出したように思われました。もう一度ど、マリーナは、もう半分うつろな目で、王子をみました、その刹那、身を躍らせて、海の中へ飛び込みました。

 そうしてみるみる、体が泡になって溶けていくように思いました。
 いま、お日さまは、海の上に昇りました。その光は、柔らかにに、暖かに、死のように冷たい泡の上にさしました。マリーナは、まるで死んで行くような気がしませんでした。明るいお日さまの方を仰ぎました。すると、空の上に、なん百となく、透き通るような神神《こうごう》しいもののかたちがみえました。その透き通るものの向こうに、船の白い帆や、空の赤い雲をみました。空のその声はそのままに歌のふしでしたが、でもそれは魂の声で、人間の耳には聞こえません。
 
 その姿もやはり人間の目ではみえません。それは、翼がなくても、自然と軽い体で、ふうわり空をただよいながら上がって行くのです。マリーナも、やはりそれと同じものになって目には見えないながら、ただよう気息《いき》のようなものが、泡の中から出て、だんだん空の上へあがって行くのがわかりました。
マリーナ 「どこへ、あたし、いくのでしょうね。」
50 語り部 その声は、もうそこらに浮き漂う気息《いき》の仲間らしく、人間の音楽にうつしようのない、魂の響きのようになっていました。
「大空のむすめたちのところへね」

「人魚のむすめに死なない魂はありません。人間の愛情を受けない限り、それを自分の物にすることはできません。限りない命を受けるには、ほかの力に頼る他ありません。大空の娘たちも長く生きる魂を持たない代わり、良い行いによって、自分でそれを持つこともできるのです」

「あたしたちは、熱い国へ行きますが、そこは人間なら、熱病の毒気で死ぬような所です。そこへ涼しい風をあたしたちは持っていきます。空のなかに花の匂いをふりまいて、ものを爽やかにまた健やかにする力を運びます。こうして、三百年のあいだつとめて、あたしたちの力の及ぶ限りの良い行いをしつくしたあと、死なない魂を授かり、人間の長い幸福を分けてもらうことになるのです。

 お気のどくなマリーナ、あなたもやはりあたしたち同様真心こめて、同じ道におつとめになったのね。よくも苦みをおこらえなさったのね。それで、いま、大空の気息《いき》の世界へ、ご自分を引き上げるまでになったのですよ。あと三百年、よい行いの力で、やがて死ぬことのない魂が授かることになるでしょう」
語り部  その時、マリーナは、神さまのお日さまに向かって、光る手をさしのべて、生まれてはじめての涙を目に感じました。

 ――その時、船の上は、またもがやがやしはじめました。王子と花嫁が自分を探しているのを、マリーナは見ました。ふたりは、悲しそうに、わき立つ海の泡をながめました。
 マリーナが海に入ってそれが泡になったことを知っているもののようでした。目には見えないながら、マリーナは、花嫁の額にキスを送って、王子に微笑みかけました。そして、ほかの大空の娘たちとともども、空の中に流れてくるばら色の雲にまぎれて、高く昇って行きました。
マリーナ 「三百年たてば、あたしたち、こうして漂いながら、やがて神さまのお国までも昇って行けるのね」
「いいえ、そう待たないでも、いけるかもしれませんの」

「目には見えないけれど、あたしたちは、子供たちのいるところなら、どの人間の家にも漂っています。そこで毎日、その親たちを喜ばせ、その愛《いつく》しみを受けている良い子をを見つける度に、その試しの時が短くなります」

「子供は、いつ、あたしたちが部屋の中へは飛んで行くかしらないのです。でも、あたしたちが、良い子供を見て、つい喜んで微笑みかけるとき、三百年が一年へります。けれど、そのかわり、いたずらな、またはいけない子供を見て、悲しみの涙を流させられると、その一滴のために、あたしたちの試しの時、一日だけ伸びることになるのですよ」

劇 終

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