小説 古畑任三郎より

中川外科部長のコート
001 中川 「なんとかなりませんかね。悪い話じゃないと思うが」
002 宍戸 「先生もしつこいなぁ」
003 中川 「人生がかかってるもんで、申し訳ないが」
004 宍戸 「気の毒だけど同じ返事しかできないな」
005 中川 「分かるだろう。あんな写真を家内が見たら、私はおしまいだ」
006 宍戸 「あんた自業自得って言葉知ってるか」
007 中川 「ちなみに君は家内にあの写真をいくらで売るつもりなの」
008 宍戸 「企業秘密」
009 中川 「倍払ってもいいな」
010 宍戸 「無理するなよ、先生。あんたの財産、全部かみさん名義じゃねえか」
011 中川 「どうすりゃいいんだ私は」
012 宍戸 「俺に聞くな。高くついたもんだな」
013 中川 「家内とは離婚だ。病院だっていられなくなる。医者ってのは意外とこれ、つぶしが効かないんだけど」
014 宍戸 「あいつと一緒になればいいじゃないか、新しい女とさ」
015 中川 「それもいいんだけど、彼女の親父は、病院持ってないんだよ」
016 宍戸 「面白いことを言うなお前さんも」
017 中川 「頼むよ、宍戸さん」
018 宍戸 「諦めろ。この世界依頼人裏切ったら、終わりなんだよ。それじゃあな」
「あんたのも奢ってやるよ、先生。これからいろいろ大変だろう」
019 中川 「有り難いな。涙が出るよ」
020 宍戸 「しっかりやれ」
021 ナレーション  宍戸と呼ばれた人物は、ぱんぱんに膨らんだコートのポケットに左手を突っ込むと、小銭を掴んでテーブルの上に置いた。

 宍戸は悠然とビュッフェを出て行く。中川はじっと彼の後姿を見送っていた。
宍戸の姿が完全に消えるのを待ってから、中川は彼が飲んでいたコーヒーカップを引き寄せた。そして、スプーンでカップの底に残ったコーヒーをゆっくりかき回した。10分ほど前に隙を見て投入した睡眠薬の錠剤は、既に跡形もなく消えていた。こうして天真楼(てんしんろう)病院外科部長中川淳一は、殺人者への第一歩を踏み出したのである。

 新幹線の車内販売コーナーで中川は弁当と冷凍みかんを買って自分の席へ戻った。
これから人を殺そうという前に、腹が減る自分が、中川は愛しかった。計画を復唱しながら弁当を食べていると、まるで冷徹な殺し屋になったようで、胸が高鳴った。

 食べ終わり一服してから中川は時計を見た。いい時間だった。そろそろ宍戸も薬が効いて熟睡しているはずだ。中川は、みかんをポケットに押し込んだ。その時だった。
022 古畑 「すみません」
023 中川 「なにか」
024 古畑 「今、あなたがお食べになっていたのはスタミナヘルシー酢豚弁当でございますよね」
025 中川 「どうだったかな」
「・・・ああ、そう書いてありますね。それがなにか」
026 古畑 「ちょっと失礼します」
027 ナレーション  男は空の弁当箱を手に取った。ずいぶんと無遠慮な奴だな、と中川は思った。男は、中川が結び直した紐を必死にほどこうとしている。わざと慇懃無礼に中川は尋ねてみた。
028 中川 「差し支えなければどういうことか伺いたいのですが」
029 古畑 「大したことではないのですが。これ、なかなかはずれませんね」
030 中川 「すみませんね。きつく結んでしまって」
「・・・やりましょう」
031 古畑 申し訳ないです。実はですね、私も先ほどスタミナヘルシー酢豚弁当を買ったんですよ。おいしいことはおいしかったですが、中がかなりの上げ底で、他もそうなのか気になりまして」
032 中川 「それなら開けるまでもありませんよ。確かに私が食べたのも上げ底でした」
033 古畑 「あれでお腹一杯になりましたか」
034 中川 「僕にはちょうど良かったけど」
035 古畑 「私はどうも騙されたような気がしてしょうがない。まあそこがヘルシーのヘルシーたる所以かも知れませんが」
「・・・どうも失礼いたしました」
036 ナレーション  男は通路をよろけながら去って行った。なんと失礼な男だ。と中川は憤った。自分はどんなに社会的地位が上がっても、ああいう図々しい人間にはなるまい、と思った。いつでも他人に対して礼節をわきまえた人間でいたいものだ。そして立ち上がると、彼は宍戸を殺しに向かった。

 座席は、隣のグリーン車だった。宍戸は足を投げ出してぐっすりと眠っていた。その車両はがら空きだった。宍戸の他には、後ろの席に派手な身なりの男女が一組と、後ろの方に年配の夫婦連れがいるだけだった。中川は宍戸の隣にすばやく腰を降ろした。
 
 宍戸は寝息を立てていた。試しに腕をつねってみたが反応はなかった。中川はポケットに手を入れフィルムを探した。どのポケットも様々な小物ではちきれそうだった。かなり粗雑な性格だったようだ。財布を持ち歩かない主義なのか、千円札が数枚丸めて裸で入っていた。小銭もかなりじゃらじゃらいっている。眼鏡ケースとサングラスが別々のポケットに入っていた。上着の右ポケットから小型のカメラが出て来た。蓋を開けてみるとフィルムは抜いてあった。

 宍戸のコートをめくってみると、内ポケットがもっこりしている。手を突っ込んでみると、指が入らない。よく見ると口が縫い付けてあるではないか。その中にフィルムがあるのは間違いがなかった。さすが本職の探偵は用心深いと中川は感心した。中川は力任せに縫い口を破ろうとしたが、かなり頑丈に縫ってあるのでびくりともしない。仕方ないので、コートごと持って行くことにした。後ろの男を刺激させないように、そっと宍戸の体からコートをはがす。脱がせたコートは丸めて椅子の上に置いた。

 いよいよここからが正念場だ。中川は用意した注射器とアンプルをポケットから取り出した。注射針の先のキャップをはずす。アンプルの先端を割る。中の溶液を注射器で吸い取る。しゃがみ込むと宍戸の靴下をめくり、右足のくるぶしを露出させる。指で静脈を確認すると、中川は慣れた手つきで針を刺し、すばやく液を注入した。

 針を抜き、キャップをはめると中川は立ち上がった。そしてコートを抱えると何食わぬ顔で通路を出た。熟睡したまま死んでいく宍戸を残して、中川は車両を離れた。すべては計画通りだった。後ろの男に顔を見られた可能性はあるが、次の駅で降りてしまえば身元がばれる恐れはない。

 中川は確信した。有能な外科医である中川淳一は、同時に有能な犯罪者でもあった。一芸に秀でた者は何をやらせても一流であることを、彼は身を以って実証したのだ。

 わずか2時間後には、それが大きな誤解であったことに彼は気付くことになるのだが・・・。
037 車掌 「お客様の中で、お医者様はいらっしゃいませんか」
038 ナレーション  数十分が過ぎた頃、青い顔をして車掌が通路をやってきた。中川は無視して寝たふりを決め込んだ。

 車掌が去ったのを確認してから、中川は膝の上に置いた宍戸のコートを掴むと、作業に戻った。縫い目は思った以上に丈夫だった。

 しばらくしてまた車掌が通路をやって来た。中川はコートを膝の上に置くと、急いで寝た振りをした。すぐ脇で車掌が立ち止まったのが分かった。気付かない振りをしていると、車掌が声を掛けて来た。
039 車掌 「お客様申し訳ありません」
040 中川 「何か」
041 車掌 「ちょっとご足労願いたいのですが」
042 中川 「どういうことですか」
043 車掌 「お医者様でいらっしゃいますよね。ぜひとも、力を貸して頂きたいのです」
044 中川 「私は医者ではありませんが」
045 車掌 「とにかくお願いします」
046 中川 「医者じゃないと言ってるでしょう」
047 車掌 「あなたを呼んでくるようにと言われてるんです」
048 中川 「誰が私を呼んでいるんですか」
049 車掌 「お願いします」
050 ナレーション  車掌室には3人の男がいた。一人は車掌の中でも一番偉そうな服を着た男で、一人は宍戸だった。彼は簡易ベッドの上に横たわっていたが、顔色から見ても完全に死んでいた。そしてもう一人は、中川に弁当のことを聞いて来た、あの無礼な男だった。
051 古畑 「わざわざすみませんでした」
052 中川 「これは一体どういうことですか」
053 古畑 「いささかやっかいなことになりまして、お医者さんですよね」
054 中川 「説明してください」
055 ナレ(山口) 「私、車掌の山口と申します」
056 中川 「自己紹介はいいです」
057 ナレ(山口) 「実はこちらのお客様が通路に倒れておりまして、どうも様子から見て、それが亡くなっているようでして」
058 古畑 「お医者さんでいらっしゃいますよね」
059 中川 「こちらの方はどなたですか」
060 ナレ(山口) 「警察の方です。たまたま乗ってらっしゃいまして」
061 古畑 「古畑と申します。先ほどは失礼いたしました」
「・・・先生」
062 中川 「はい」
063 古畑 「ほら、やっぱり先生だ。ちょっと診察してもらえるでしょうか」
064 中川 「どうして、僕が医者だと分かったんですか」
065 ナレーション  古畑はそれには答えず、宍戸の死体を指差した。
066 古畑 「お願いします」
067 中川 「・・・・・・亡くなってますね。どこから見ても」
068 古畑 「原因はわかりますか」
069 中川 「なんとも言えませんが、いわゆる突然死という奴ではないでしょうか。状況より判断して心臓発作ではないかと思われます」
070 古畑 「間違いないですか」
071 中川 「心筋梗塞でしょう。苦しんだ様子もないし、一瞬だったんじゃないかな」
072 古畑 「なるほど・・・」

「どうもありがとうございました。失礼ですが・・・」
073 中川 「天真楼病院の中川と言います」
074 古畑 「助かりました」
075 中川 「刑事さん」
076 古畑 「古畑で結構です」
077 中川 「くどいようですが、どうして僕が医者だと分かったんですか」
078 ナレ(山口) 「鞄に住所と電話番号が書いてあるから、とりあえずそこに電話して家族の方に知らせてあげなさい」
079 車掌 「分かりました」
080 古畑 「ちょっと待ってもらえますか。気になる点があるんです」
081 ナレ(山口) 「どういうことでしょう」
082 古畑 「説明致しましょう。どこか広い所はないでしょうか」
083 ナレ(山口) 「四人用の個室が開いていますが」
084 古畑 「そこに行きましょう。先生も御同行願えますか」

「・・・宍戸隆、興信所の所長さんです」
「鞄の中身から考えまして、旅の帰りだったようです。出張にでも行かれてたのでしょう」
085 ナレ(山口) 「誰か尾行してたのでしょうか」
086 古畑 「そこまでは分かりません。私が気になっているのはこれなんです」

「全て亡くなった宍戸さんのポケットに入っていた物です。小型カメラに、煙草のヤニ取りフィルター、メガネケースに、裸のカセットテープ、そしておそらく財布を持ち歩かない主義だったのでしょう、裸のお札と旅行券。先生、どう思われますか」
087 中川 「これが全部ポケットに入ってたんですか」
088 古畑 「ええ、そうです。なんでもポケットに突っ込む人、いますからね」
089 中川 「しかしこれだけ入ってりゃぱんぱんだったでしょうね」
090 古畑 「ぱんぱんでした」
091 中川 「ずいぶんと服装に構わない人だったようですね」
092 古畑 「どこか引っ掛かりませんか」
093 中川 「なにがでしょう」
094 古畑 「よく見て下さい。これ、実に中途半端な物ばかりなんです。サングラスのケースはあるが中身がない。煙草のヤニ取りフィルターはあるが、煙草がない。カメラはあってもフィルムがない。お札があっても小銭がない。そして石川さゆりのテープはあっても、それを聴くウォークマンがありません。一体どういうことでしょうか」
095 中川 「鞄の中は探してみたんですか」
096 古畑 「ありませんでした」
097 中川 「どこかに置き忘れたんじゃ」
098 古畑 「そうだとしたら、よほど注意力のない人ということになります。興信所の所長さんです。ちょっと考えにくいですね」
099 中川 「盗まれたとおっしゃるんですか」
100 古畑 「それもどうでしょうか。盗むほどの品物でしょうか」
101 中川 「分からないな。しかし忘れたんでも盗まれたんでもないとすると」
102 古畑 「確かに、色々な物がここにはありません。しかし考えようによっては、失った物は一つだけという見方も成り立つ。すなわち、もう一つのポケットです」
103 中川 「すみません、僕には意味が分からない」
104 古畑 「つまりこういうことです。誰か、彼のコートを持って行った人がいます」
105 ナレ(山口) 「なるほど」
106 ナレーション  その時、中川は、宍戸のコートを羽織っていることを思い出した。座席に置いておくと不安だったからだ。
 古畑はそんな不安を見透かしたように中川のコートを指差して言った。
107 古畑 「おそらくこの手のコートです。薄手の、スプリングコート」
108 ナレーション  中川は気が気ではなった。コートのポケットにはサングラスも煙草もウォークマンも小銭も、入ったままであった。
109 ナレ(山口) 「置き引きに合ったということですか」
110 古畑 「コートを脱いで手に持っていたのなら、それも有り得ます。しかし、それだけポケットに色々な物を突っ込んで、普通コートは持ち歩きません。おそらく着ていたんだと思います」
111 ナレ(山口) 「着ていたコートを誰かが脱がせたと言うんですか」
112 古畑 「中川先生、心臓発作に見せかけて人を殺すということ可能ですか」
113 中川 「出来ないことじゃありませんけどね」
114 古畑 「後で体内から検出されない毒物というのはあるんですか」
115 中川 「そうですね、もともと体内にあるものなら、打っても分からないでしょう」
116 古畑 「例えば」
117 中川 「カリウム」
118 古畑 「カリウムで人が殺せますか」
119 中川 「大量に打てば」
120 古畑 「どのくらい」
121 中川 「20ccを迅速に静脈注射」
122 ナレ(山口) 「ちょっと待って下さい古畑さん。ということは何ですか、これは殺人ということに」
123 古畑 「可能性はあります。現実に、誰かがコートを持って行ってるんです」
124 中川 「コート泥棒か。しかしずいぶん高価なコートを着ていたということになりますね」
125 古畑 「もしくは何かそのコートに大事な意味があったのか。例えば大切な物が隠してあったとか。殺しを犯しても手に入れたかったわけですから相当大事な物のはずです」
126 中川 「だけど待って下さい。そんなことをしたら遺体に針の跡が残りますよ。調べたらすぐにばれてしまう。僕が犯人ならそんな真似はしない」
127 古畑 「もう一度遺体を確認してもらえますか」
128 ナレーション  中川は死体の腕をめくった。古畑がすぐ脇をじっと見守る。
129 中川 「どこにも見当たりませんね」
130 古畑 「目で見ても分かるもんですか」
131 中川 「まだそれほど時間が経っていないので、注射を打たれたんなら、たぶん赤い腫れが残ってるはずです」

「・・・ないですね。これで殺しの線は消えましたね」
132 ナレ(山口) 「ほっとしました」
133 中川 「僕の所見通り、心筋梗塞と考えて間違いないでしょう」
134 古畑 「ちょっと待って下さい」

「くるぶしの辺りも、見てもらえますか」
135 中川 「なんですって」
136 古畑 「くるぶしです。よく麻薬患者は、そこに打つんですよ。静脈があるんですよね」
137 中川 「まあ確かにありますが」
138 古畑 「一応、調べてもらえますか」
139 中川 「さすが本職の刑事さんは目の付け所が違う」

「・・・残念ながらありませんね。だいいち、一般の人にはこんな場所に静脈があるなんてことは知りませんから」
140 古畑 「足は二本あります。出来ればもう一方も調べて見てください」
141 ナレーション  中川は宍戸の左足の裾をめくった。皮肉な話だった。まさか自分で注射の跡を発見することになろうとは。
142 中川 「あっこれは」
143 古畑 「ありましたか」
144 中川 「赤くなっています。ポツっと。これは確かに注射器の跡です。的中ですよ古畑さん」
145 古畑 「大至急警察を呼んで、鑑識を待機させて下さい」
146 中川 「恐ろしい話だ。古畑さん。列車の中で殺人事件が起こるなんて」
147 古畑 「しかしもっと恐ろしいことを私は知っております」
148 中川 「と言いますと」
149 古畑 「犯人はおそらくまだ、この列車の中にいます」

続 劇(前編終了)

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