エースをねらえ!
宗方 仁−生前より−
文庫コミック 第7巻より

  OP  NEVER SAY GOOD BYE  Video3,129kb
001 N −宗方 仁ー 生前より・・。

宗方のもとに一通の封書が届く。差出人は桂 大悟と書いてあった。

  桂 大悟 『前略。お前さんの育てた岡ひろみが、新年早々我が国のジュニア・テニス・プレーヤーの一員として渡米する事になったと聞いた夜、喜びのあまり本堂で一升酒くらってじいさんにカミナリを落とされた』

『嬉しい!実に嬉しい!あの日の事は今も脳裏に焼き付いて離れない。俺の打った一球のために最も将来を嘱望されていたテニス・プレーヤー宗方 仁が庭球界から消えねばならなかった。そして、あの約束・・俺は生涯忘れない。会いたい、岡も見たい。近く出かけていく』

  宗方 仁 「大悟・・・」
  N コートで宗方がひろみにアドバイスしている。ひろみはそんな宗方の顔をじっと見つめている。
  宗方 仁 「なんだ?」
  岡 ひろみ 「は・・いえ・・あの別に・・」
  宗方 仁 「いつものトレーニングをして藤堂が来たら日没まで練習。おれはこれで帰る」
  岡 ひろみ 「はい!ありがとうございました!」
  N ひろみはランニングに汗を流す。その道すがら、ひろみは宗方の事を思った。
010 岡 ひろみ 「コーチ・・・その眼差しを2年前は氷のようだと思ったのですが、今は誰も知らない山奥の透(す)んだ湖のようだと思います。その前に立てば、良さも悪さも全て映し出されてしまうようで、恐ろしくもあり、覗き込みたくもあり・・」

「頑張れ、後3キロ・・あと2キロ・・後1キロ・・速く!もっと速く!・・コーチの目はいつでもわたしに届いてる。今この一瞬もわたしの後ろに、あの透(す)んで厳しい目がある。速く!速く!一秒でも速く!一歩でも速く!当面は渡米のために外国選手と恥ずかしくないプレイをするために」

  N ひろみは力いっぱい走っていく。ゴール地点、西高グラウンド。帰ってきたひろみを千葉が迎えた。
  千葉 鷹志 「がーっはっはっ!空手マン千葉 鷹志、勝利せり!テニスマン尾崎 勇、敗れたり!」

「ザマミロ、やっぱ岡さん10秒以上、香月をリードしたろうが!!」

  尾崎 勇 「ぐ〜〜〜っ!香月〜〜!」
  岡 ひろみ 「わ!あとから香月君走ってたんだ!」
  千葉 鷹志 「覚悟はいいね尾崎サン。敗者は”涙な〜〜みだのデコパッチン”10回刑ョ〜〜」
  尾崎 勇 「おお!上等じゃい!」
  藤堂 貴之 「君のあとから3分遅れて香月がスタートしてね、おチバと尾崎で、君が10秒以上リードするか10秒未満のリードか賭けたんだよ」
  岡 ひろみ 「藤堂さん!」
  藤堂 貴之 「しかし、あいかわらずコーチのいない所ででも、本当に全力でトレーニングするね君は」
020 岡 ひろみ 「い、いえ。すぐそばにいらっしゃらなくても、コーチの影響力は変わりませんから」
  N 藤堂とひろみの試合形式の練習が始まった。
  尾崎 勇 「レディ?ザ・ベスト・オブ・3セット・マッチ。岡、サービスプレイ!」
  N サービスを打つひろみ、藤堂の力強いスマッシュがひろみのラケットを弾き飛ばした。宗方の言葉が頭をよぎる。
  宗方 仁 『藤堂を見ろ。同じプレイヤーとしてあのプレイにあこがれないか。どうだ、どう思う』
  岡 ひろみ 『しっかりひろみ!もっと藤堂さんの動きを見てコースを読んで!逆をつかれないように、脇を抜かれないように、藤堂さんの精神力に負けないように!気迫で負けて、この学生チャンピオンの球が、たとえ一球でもかえせるものか!」
  N この一球は絶対無二の一球なり、されば、身心をあげて一打すべし。この一球一打に技を磨き、体力を鍛え、精神力を養うべきなり。この一打に今の自己を発揮すべし、これを庭球する心という。

雪がちらちらと舞っている。雪に誘われるように宗方が障子を開けた。空を見上げ舞い落ちる雪を目で追っている。ふと、生垣の向こうに立つ托鉢僧の姿が目に入った。

  宗方 仁 『大悟・・・!!』
  N 本格的な雪模様となり、町は白一色に染め上げられている。
  岡 ひろみ 「あの・・帰りにちょっとコーチのお宅に寄らせていただきたいと思うんですが」
030 藤堂 貴之 「そう、じゃ、送るよ」
  千葉 鷹志 「そー、送る送る」

「空から地面へ落ちるまでって雪にとっちゃ結構長い旅だろねー」

  尾崎 勇 「案外、落ちたくなくてジタバタしてる雪なんてのもいたりして」
  藤堂 貴之 「人生だなァ」
  宗方の家に着いたひろみは藤堂達に別れを告げ、入口の戸を開けた。
  岡 ひろみ 「じゃ、また明日。どうも、ありがとうございました!」
  桂 大悟 「うわっはっはっは」
  奥から豪快な笑い声が響いてくる。祖母の話では宗方の友人が来ているらしい。ひろみはそのまま帰ろうとした。その時、障子が開いて宗方が顔をのぞかせた。
  宗方 仁 「岡か、丁度良いあがりなさい」
  岡 ひろみ 「は・・はあ・・」

『悪いとこきちゃった・・鬼コーチの友達はやっぱり鬼で、良い例が太田コーチで・・この声から察するに、この人もやっぱり立派な鬼みたいです・・・。ここは一番うんと丁寧に振舞わないと』

「こんにちは、突然お邪魔いたしまして」

040 ひろみは深々と頭を下げて、顔を上げた。目の前にひとりの青年が座っていた。
  岡 ひろみ 『お・・・お坊様・・・!?』
  桂 大悟 「へえ!お前さん制服だと子供っぽいね。わっはっはっは!テニスウェアん時より2つばかり下に見える。足、くずさしてもらうよ。お前さんも楽におし。ハハ、どうしたね?坊主を見るのは初めてかい?さあ、中へお入り」
  宗方 仁 「悪友の桂 大悟だ。心配ない入りなさい」
  桂 大悟 「時に”娘道成寺”ってのを知ってるかい?安珍てェ若い僧が、清姫てェ娘に追っかけられる話」

「安珍は道成寺の鐘ン中に隠れるが、清姫は大蛇と化して追ってくるんだねェ、これが。恐ろしいねェ。いやー、古来僧侶はモテるんだよね。無理もない菜食だから体がダブつかないし精神が高いから目が美しい!」

  ひとしきり話に花が咲いた。その夜、ひろみは布団の中で楽しかったあのひと時を思い出している。
  岡 ひろみ 「おかしなお坊様、お水みたいにお酒飲んでシャレとばして、とても印象的。それにコーチ。あんなに嬉しそうなコーチを見たのは初めて」

「親友同士って見ていてなんて気持ちがいいんだろ。例えばコーチとお坊様。例えば藤堂さんと尾崎さん。渡米するのが怖い・・わざわざ負けに行くのが怖い・・」

「昔、日本のテニスは強かったそうなのに、なぜわたしたちの時代にはこんなに弱くなってしまったんだろう。外国勢がなぜあんなに強くなる事ができたんだろう。・・・・それを勉強してこなければ体当たりで。ビクビクしてる時じゃない・・・あと10日で出発なんだから」

「昔々、遊ぶためにテニスを考えだした誰かさん。何百年もたった今、わたしは日本で真っ黒になってテニスをしています。昔々の誰かさん。よくテニスを考え出してくださいました。テニスがこの世に無かったら、わたしは随分、怠け者になっていたと思います。感謝します」

  静かに夜がふけていく。

宗方の家。

  宗方 仁 「どうした、酔いが醒めたか」
桂 大悟 「はなから酔っちゃいねーよ」

『全く、頭が痛くなってきた。オレはこの5年間を仁との約束を果たすためにのみ費やしてきた。岡の事もよくわかってるつもりだ・・が、本物の岡を見たショックはでかい。ありゃとんでもない選手だ、本人がそれに気付いていないのが幸運でもあり恐ろしくもある。ともかくこれからだ、これからが大変だ』

050 宗方 仁 「寝るか、そろそろ」
  桂 大悟 「ん・・・ああいいよ、自分の布団は自分で・・・」
  振り向くと、宗方が襖(ふすま)に寄りかかり、うずくまっていた。
  桂 大悟 「仁!!」
  宗方 仁 「大声を出すな・・・!」
  桂 大悟 『仁・・・!!」
  宗方 仁 『きたか・・とうとう・・・・あと・・何日もつ・・』

「せめて渡米だけは無事すませてやりたい」

  宗方は大悟の手を握り、苦しい息の下で大悟に言った。
  宗方 仁 「大悟・・・・頼むぞ・・頼んだぞ」
桂 大悟 「仁・・・」
060 宗方 仁 「これは、奇跡への挑戦だ・・・」
  桂 大悟 「約束通りにするよ、必ず全力を尽くす」
  宗方は、傍らに置いてあるラケットを取ると、しばらく見つめそれを大悟に手渡した。
  宗方 仁 「時がきたら、お前の手から岡に渡してやってくれ」
  桂 大悟 「・・・わかった」

『時が流れる・・人の環が廻(めぐ)る今夜限り酒を断とう・・・・仁を失った岡ひろみが再起する日まで、一滴の酒も口にすまい!」

  竜崎邸、軽やかなラリーの音が響く。明るい朝日が差し込む庭のコートで、麗香と父、竜崎理事がテニスで汗を流していた。
  竜崎 麗香 「ありがとうございました、お父様。なかなかお父様には敵いませんわ」

「ではわたくしまたひろみの相手をして参りますので」

  竜崎理事 「ああ、気をつけて」
  麗香のいなくなったコートにひとり立ち、竜崎理事は思いをはせている。
竜崎理事 「なぜ、わたしなどがいまだにコートを走ってるんだろう。あれから5年・・今、まさに絶頂期にあるべきはずのふたりがなぜコートから消えねばならなかったのだ・・・」

「宗方 仁・・・桂 大悟・・・悔やむまい、ふたりのうちの一方は優れたコーチとして、かつての自分の代わりに世界に羽ばたく選手を育てつつあるのだから」

070 岡 ひろみ 「お蝶夫人!毎朝毎朝すみません!」
  竜崎 麗香 「よろしいのよ、早速始めましょう」
  岡 ひろみ 「はいっ!」

『幸せだわたしは。早朝練習には女子チャンピオンのお蝶夫人が。放課後の練習には男子チャンピオンの藤堂さんがわざわざ相手をしに来てくださる。テニス歴の浅いわたしを少しでも押し上げようとこんなにも力を貸してくださる。ありがたい!今日も良いプレイが出来ますように』

「お願いします!」

  竜崎 麗香 「良い目だわひろみ!そういう目の時は球が良く見えるものよ。さ、いくわよ!」
  岡 ひろみ 「はいっ!」
  西高、テニス部。宗方コーチの体調が良くない事もあり、太田コーチが宗方の穴を埋めている。その太田から、ひろみに宗方の入院が告げられた。
  岡 ひろみ 「コーチが・・・・入院!?」
  練習の帰り道、ひろみは宗方の入院にショックを隠し切れない。石につまづき転びそうになるのを藤堂が支える。
  藤堂 貴之 「しっかりするんだよ。大丈夫、太田コーチの話ではたいした事は無い」
岡 ひろみ 「藤堂さん・・・怖いんですとても。この頃コーチはとても遠くを見てらっしゃるんです、わたしはコーチの望むとおりの選手になりたいんです・・・でも、とてもあんな遠くまではついていけないような気がするんです。怖いんです・・・置いてかれそうな気がするんです・・・」
080 藤堂 貴之 『岡さん・・・』
  201号室、扉を開けると宗方がいた。宗方はベッドの上に半身を起こし優しくひろみを迎えた。
  宗方 仁 「よう、どうした」
  岡 ひろみ 「コーチ!!ど、どうなさったんですか。おかげんいかがですか」
  宗方 仁 「なんともないさ。太田に無理やり入院させられたんだ」
  岡 ひろみ 「ほんとですか?」
  宗方 仁 「ああ、見たところも変わりないだろう」
  安心したひろみの大きな瞳からポロポロと涙が溢れ出した。
  宗方 仁 「またお前は・・・」
宗方は優しくひろみの肩を抱いてやった。その様子を藤堂が複雑な表情で見つめていた。

自宅に戻った藤堂は、窓の外を流れる風に舞う木の葉を見つめながらじっと考え込んでいた。

090 藤堂 貴之 『なんと完璧な師弟だろう。なんと強烈な絆だろう・いったいあの中に入っていけるのだろうか?』

『岡さん、不安なのは君ばかりではないよ。コーチといる君を見ると刺されるように胸が痛む。いったいいつになったら俺はコーチに続く男になって君の信頼を得られるんだろうねェ・・』

  電話の音が藤堂を現実へ引き戻した。電話の相手は宗方だった。
  藤堂 貴之 「はい、藤堂です。あ!・・コーチ」
  宗方 仁 《電話》
「話がある。来てくれ今すぐ・・」
  藤堂 貴之 「はい、わかりました」

『なんだろう?』

  冷たい木枯らしが木の葉の落ちた木の枝を揺らしている。病室で向き合う宗方と藤堂。藤堂の顔がだんだん悲しげにゆがみ、うつむいてしまった。

夜の公園。ひとりブランコに座る藤堂。藤堂の体を冷たい風がを吹き抜けていく。宗方の言葉が頭をよぎっていく。

  宗方 仁 『詰まらん事でやめてしまえるテニスならさっさとやめるがいい!』

『男なら、女の成長を妨げるような愛し方をするな』

『岡を・・頼む』

  藤堂 貴之 『・・・・・・・・・たった2年・・・・・」

『我々の前を嵐のようにかけ抜けて行ってしまう・・・!残酷な・・・!俺でさえこれほどの打撃を受けるのだ・・・まして・・・』

  岡 ひろみ 『怖いんです・・・置いてかれそうな気がするんです・・・』
藤堂 貴之 『あれほどの絆が切れたら彼女はどうなる!あのふたりはまるでひとつの根から別れて伸びたふたつの幹・・一方が朽ちてしまったら、残されたもう一方はいったいどうなってしまうんだ・・・!!』
100 竜崎邸、理事長がひろみたちを集めて話し始めた。
  岡 ひろみ 『立派な応接室・・・』
  竜崎理事 「集まってくれてありがとう。入院中の宗方コーチの病室へ見舞いと渡米報告をかねて行く前に少し諸君に話しておきたかったのですよ」
  藤堂 貴之 『まさか・・・』
  竜崎理事 「昔、日本のテニスは強かった」
  藤堂 貴之 『理事はご存知なのか・・ご存知ないのか・・・』
  竜崎理事 「外国勢とプレイして力が出せないなどという事も無かった」

「熊谷(くまがや)選手が渡米したのは確か大正5年。サウスポーのウエスタングリップで打ちまくり、全米第1位のジョンソンを破り、なんと初遠征にして全米ランク第5位という快挙でした」

「そうして、テニスの巨人チルデンと大接戦を演じた清水選手!続々増えるテニス人口!その熱気の中で日本庭球協会設立!まさに世界に”日本旋風”を巻き起こしたのですよ。そうして遂に日本テニス界はひとりの天才を得た!」

「佐藤次郎、彼は昭和6年にデ杯選手となり立派な戦績を上げ、翌7年にはウインブルドンで前年のチャンピオンを破って観客を熱狂させたのです!そして翌8年には全仏で英国ナンバー1のペリーを破り世界を驚嘆させ、なんと世界ランキング第3位という栄光に輝きました」

「『素晴らしい頭脳!』『鋭敏な理知と強烈な意志!』『見事な駆け引き!』外国の新聞がどれほど彼を称えた事か!」

  岡 ひろみ 『凄い・日本にそんな選手がいたなんて・・・凄い!・・凄い!!』
  そこで竜崎理事は大きくため息をつき沈痛な顔つきになった。
  竜崎理事 「日本テニス界は3度大きな悲嘆を味わいました・・・佐藤選手がマラッカ海峡で投身自殺した時、あまりの悲しみにテニス界は絶望のどん底に突き落とされ仮死状態になってしまった」
110 岡 ひろみ  『自殺・・・!!ど・・どうしてそんな・・」
  竜崎理事 「ようやく気を取り直し有望選手の出現で息を吹き返したところへ第2の悲劇・・。戦争!庭球協会の解散、若手選手の相次ぐ戦死・・・そのため日本テニス界は大きく世界に立ち遅れてしまった・・」

「第3の悲劇は最近の事だから知っている諸君もいるでしょう。素晴らしい若手がふたり出現したのですよ。我々は彼らが世界との溝を埋めてくれると信じて熱狂し、彼らも期待に応えようと夢中でコートを走り・・・皮肉にもそのコートの中で事故が起きてしまった・・・」

  岡 ひろみ 『どうしたんだろ・・何があったんだろう・・』
  竜崎理事 「しかし、何度悲劇が訪れようと我々の情熱は消えない!現にこうしてまた若い逸材が育ちつつある。日本庭球界は、また未来を信じ夢をかけます!諸君らゆえに!ここ10年20年の過去に囚われる事は無い。それ以前に更に長い歴史があったのだから!その歴史に中で我らは断じて弱者ではなかったのだから!だから、明日諸君は堂々と渡米しなさい。強者(きょうじゃ)の子孫として!!」
  岡 ひろみ 『堂々と・・・』
  藤堂 貴之 『強者の子孫として・・・理事は何もご存知ない・・・・!』

『竜崎理事・・第4の悲劇が起ころうとしているんです・・・また逸材が津波をかぶろうとしているんです!』

  宗方 仁 『他言無用だ。岡はおまえが・・』
  藤堂の脳裏に宗方の言葉が何度も繰り返し浮かび上がる。

宗方の病室にひろみたちが、明日の渡米の挨拶に来ている。病室は終始にこやかな雰囲気で時間が過ぎていく。

  竜崎理事 「・・・では、わたしはそろそろ」
  尾崎 勇 「あ、僕達もこれで失礼します」
120 岡 ひろみ  「ではコーチ。頑張ってきます」
  宗方 仁 「ん・・・体に気をつけてな」
  岡 ひろみ 「はい!コーチも早く良くなってくださいね!」
  ひろみたちは病室をあとにした。あとには藤堂がひとり残っていた。廊下の足音がだんだん小さく遠ざかっていく。
  藤堂 貴之 「・・・呼び戻しましょうか?」
  宗方は小さく頭を振った。藤堂は黙って礼をして病室を出て行った。送りに出ていた蘭子が戻ってきた。
  緑川 蘭子 「藤堂氏どうしたのかしら?何か言いたそうだったみたいね」
  宗方 仁 「お前、渡米の用意は出来たのか?明日なんだぞ」
  緑川 蘭子 「あら、冗談じゃない。病気の兄をほっぽり出して渡米する妹がどこの世界にいますか?」

「ねえ!」

  宗方 仁 「うん?」
130 緑川 蘭子  「今度・・人前で”おにいさん”って呼んで良い?」
  宗方はじっと蘭子を見つめている。そして静かに優しく言った。
  宗方 仁 「いいさ」
緑川 蘭子  「本当!?」
  宗方 仁 「ああ、母親が違ったって実の兄妹(きょうだい)なんだから」
  緑川 蘭子  『・・・仁!!』
  1月15日、全日本ジュニア・チーム・メンバー1期生、2期生、今日渡米!ジュニア強化に大きな期待!手をつなぐ各国庭球協会!世界のホープに武者修行の場!!報道は各社こぞって書いた。それだけでも期待の大きさがわかる。
  岡 ひろみ 『うう・・コーチがいてくださらないからアガっちゃいそう。コ〜〜チ〜〜〜〜!しかし、そこをジッと我慢する。コーチはあとから行くっておしゃったもの』

『昨日だってお元気そうだったもの。コーチは必ずあとから来てくださる。だから、アメリカへ行ったとたん負けちゃって見学ばかりしてるなんて事の無いように、コーチを落胆させないようにしっかりプレイしなきゃいけない』

『胸をはって!堂々と!強者の子孫として・・・!』

  タラップをあがっていくひろみ達。その耳元に暖かく優しい宗方の声が聞こえた。
  宗方 仁 『岡!エースをねらえ!』
140 岡 ひろみ 『コーチ!?』
  ドキッとして振り向くひろみの顔を藤堂が見つめる。
  藤堂 貴之 「どうしたの?」
  岡 ひろみ 「今・・・コーチの声が・・・・」
  宗方の病室。花瓶の水をかえて戻ってきた蘭子がその場に凍りつき立ち尽くしていた。花瓶が床に落ちて破片が飛び散っている。

病室へ慌しくやってきた医師が宗方の体を診察する。やがて医師は小さく息を吐き頭を左右に振った。蘭子は壁にもたれたままずるずると座り込んでしまった。

  緑川 蘭子 『知らせなきゃ・・ああ・・電話をしなきゃ・・・』
  蘭子は震える指で電話のボタンを押す。受話器の奥で小さく呼び出し音が鳴っている。その時間がとてつもなく長く感じていた。受話器の向こうに宗方の祖父が出た。蘭子は受話器に叫んだ。
  緑川 蘭子 「おじいちゃん!!仁が・・・!・・・仁が・・・・」
  宗方の訃報(ふほう)は竜崎理事に知らされた。
  宗方 仁 『わかりました。全力を尽くします。日本庭球会のために』
150 竜崎理事 「27ではないか・・・まだ・・27歳ではないか!!」
  渡米したひろみの活躍は目覚しかった。観戦する大悟にある不安がよぎった。
  桂 大悟 『これは・・・もしや・・・やはり・・・』

『仁・・岡が受ける打撃を食い止めようと全力を尽くしている時に・・見ろ!なんという皮肉だ!岡が波に乗ってしまった!良いフォームだ、良いショットだ、素晴らしいプレイだ!』

『しかし!ここで良い試合をすればするほど、お前を亡くした岡がプレイヤーとして潰れる確立が高くなる!お前がいれば仁・・・お前さえいれば!こんな素晴らしい事は無いのに・・・!!』

  《せりふ》
「ゲーム・セット岡!!」

《せりふ》
「大変だ!!第2シードのヤングがやられた!!大金星の岡にインタビューだ!!」

  竜崎 麗香 「ひろみ!!」
  岡 ひろみ 「お蝶夫人・・・」
  竜崎 麗香 「素晴らしかったわ。ひろみ!!本当によくやったわ!!」
  岡 ひろみ 「ありがとうございます。・・・ボールしか見えなかったなんです。・・・コーチの声しか聞こえなかったんです。わたし・・こんなにコーチの指示通りに動けたのは初めてです・・・!」
  竜崎 麗香 「ひろみ・・・明日からもその調子で頑張るのよ!わたくしたちは強者の子孫よ!!」
  岡 ひろみ 「はいっ!!」
160 竜崎 麗香 『わたくしも午後からの試合に必ず勝つ!そのあとお父様にお電話しよう。宗方コーチにも伝えていただこう・・どんなにお喜びになることか・・・!』

『・・・あれは!・・桂選手!?・・・そんな・・まさか・・・他人の空似?・・・・でも』

  ホテルの談話室。千葉、尾崎、藤堂がいる。千葉が興奮して喋っている。もちろんひろみの事だった。
  千葉 鷹志 「がっはっは!いやもうラジオニュースでガナリっぱなし・・・岡さんよくやった!」
  尾崎 勇 「見たかったねえ、丁度ヤング部門で藤堂がやってたもんだからねえ」
  千葉 鷹志 「おー、また言ってる。『信じがたい番狂わせ』だと!ナーッハハハハッ!気分良い!」

「じゃね、男チバちゃんとしてはフィルムの整理なんかがあるからまたね。あーたらも日本男子の名を上げよーねっ!」

  尾崎 勇 「はいはい気張ります」
  千葉がいなくなったあと、尾崎が藤堂を見つめた。
  藤堂 貴之 「どうした」
  尾崎 勇 「それはこっちのセリフ。どうしたんだよ今日の試合は。あんな相手に第1セット落として」
  藤堂 貴之 「調子が出なかったんだ」
170 尾崎 勇 「それに途中でラケットを替えたろ。買ったから良いようなもののハラハラしたよまったく」
  藤堂 貴之 「・・・ベストは尽くしてるよ」
  藤堂の目はどこかうつろで、心ここにあらず。といった風だった。
  尾崎 勇 『また、そんな目をする・・・』

「とにかく部屋へ戻ろう」

  藤堂 貴之 「ん・・」
  廊下を歩く二人。じっと黙ったままの藤堂を尾崎が見つめている。
  尾崎 勇 『宗方コーチの容態が重いのだきっと。それしか考えられない。入院が長びきそれを知った岡さんが落胆する。それを気づかっているからふさぎがちなんだ藤堂は・・。しかし、いったい何の病気だろう!?」
  竜崎 麗香 「そうなんです、お父様!ええもうあたくし嬉しくて嬉しくて。はい!ひろみに刺激されて1期生がかなり勝ち進みました」
  尾崎 勇 『お蝶さま・・・』
  竜崎 麗香 「あ、それはそうと、あたくし会場で桂選手にそっくりな方をお見かけしたのですが」
180 尾崎 勇 『桂選手?』
  竜崎 麗香 「あれほど長身の青年がそういるはずはありませんし、お父様何かご存知ありませんか?」
  尾崎 勇 「桂って・・あの桂大悟選手のこと・・」
  尾崎が藤堂に問い掛けるが、藤堂は触れられたくない話題のように顔をそむけてしまった。
  尾崎 勇 『藤堂・・・おかしい!なまじの事でこんな風になるやつじゃない・・・』
  藤堂はこの場所から逃げるように走っていった。
  尾崎 勇 「おい・・待てよ・・」
  竜崎 麗香 「お父様!?・・・変ですわ先ほどから。どうかなさったのですか!?・・ご気分でもお悪いのでは・・・」
  竜崎理事 《電話》
「麗香・・・以前・・こういう話をしたね・・・岡ひろみというテニスプレイヤーを産んだのはお前なのだと・・人生において常に岡くんの良き先輩でありなさいと・・」
  竜崎 麗香 「はい、よく覚えておりますわ。それであたくし迷いが解けて・・宗方コーチがあれほど打ち込んでいるひろみをあたくしが産んだのだと誇らしく思えて・・・」
190 竜崎理事 《電話》
「そう・・・宗方君があれほど打ち込んだ・・・・・」
  竜崎 麗香 「お父様・・・・」
  竜崎理事 《電話》
「お前を信じている・・・わたしはお前を信じている・・・」
  麗香は父の言葉で全てを悟った。その目から涙がとめどなく流れてくる。
  竜崎 麗香 『そんな・・そんな・・ひろみをおいて・・・・あ、あたくしがしっかりしなければいけない!あたくしがしっかりしなければ・・ひろみはあたくしゆえにテニスを始めたのだから。このテニス界においてあたくしはひろみの母なのだから!可哀相なひろみ!可哀相な緑川さん!お気の毒な宗方コーチ!あたしがしっかりしなければ・・』

「では・・・やはりあれは桂選手だったのですね・・・代わりにいらしたのですね・・・」

  尾崎 勇 『代わりにいらしたのですね・・・』
  竜崎 麗香 「わかりました・・ご期待に添うよう努力いたします・・・」
  藤堂 貴之 『・・・ベストは尽くしてるよ』
  尾崎 勇 『・・・ああ・・・うかつだった・・俺としたことが・・・!!』

『ふたりとも岡さんに近すぎる。どちらも岡さんと一緒に渦の中に巻き込まれてしまう・・俺が踏みこたえなければ!!』

『宗方コーチ!俺はあなたに劣ります!はるかに劣ります!しかし!俺と同い年だった時のあなたに劣りたくない!19だった時のあなたに劣りたくない!でなければあなたに出会った価値が無い!!あなたを失った意味が無い!!俺は・・俺は・・』

  千葉 鷹志 「ムフフ・・さ〜〜て準備万端整えり!職人気質はねーこーゆーふーに道具を大事にするもんョ。これで明日もばっちりなのだ。岡さん、これでまた明日君を写します」

『もう、寝たかな・・・これが俺の青春・・見つめるだけ、ただ惚れてるだけ・・それでいい・・それだけでいい。それだけでね・・』

「ああ、そうだ。先輩から航空便が来てたっけ・・なーんでしょーねー。まさかチバちゃんに良い写真撮れたら提供しろョなんてんじゃないでしょねー。そーはいかんのョねー。撮るってことは神聖なる愛情表現なわけ・・・」

200 手紙に目を落とした千葉ががばっと跳ね起きる。そしてその手紙に目をみはった。
  千葉 鷹志 「・・岡・・エースをねらえ!・・それが彼の絶筆だったそうだ。みな打ちのめされている。というのも逆に事実をたどれば彼、宗方 仁は5年前のあの日から今日を予想していたとしか思いようが無いからだ。5年間だ千葉!5年間もただ一点を。」

「針の先のようなただその一点のみを見つめて、ああも見事に生ききれるものだろうか!?そしてみなうろたえている。いったい岡選手はどうなってしまうのかと。彼を失ってこののちやっていけるだろうかと。失意と恐怖のうちに庭球協会も報道界も沈黙している。岡選手が帰国するまでこの凶報を伏せておく。それが今、我々に出来得る最高の事なのだ」

「しかし俺は君を信じて賭けをする。君に敢えてこの凶報を伝える。岡選手よりも一足速く打ちのめされて、岡選手が打ちのめされる時には立ち直っていて欲しいのだ。君に!」

「時間がない、何かあったらまた知らせる。岡選手の調子はどうだろうか。秋月(あきづき)」

  千葉は荒れた。布団、枕。そこらあたりの物を当たり次第、引き裂いた。
  千葉 鷹志 「おれは岡さんに惚れてますよ!!ぞっこん惚れてますよ!!だけど先輩、俺は昔、宗方コーチの生の試合を見たことがあるんです!!凄いプレイでしたよ、あの人は凄い人なんですよ!!あの物凄い人を亡くした岡さんに・・・おれが・・俺がいったい・・何をしてやれると・・いったい何を・・先輩・・・」
  藤堂、麗香、尾崎、千葉・・みなそれぞれの眠れぬ夜が更けていった。

全ての試合日程が終了し、ひろみは準優勝を獲得した。

  岡 ひろみ 『日本へ!・・日本へ!!・・ああ・・幸せ!!」
  帰路。ひろみは飛行機のなかで静かな寝息を立てている。
  藤堂 貴之 『おやすみ安らかに・・・もう当分、どんな眠りは訪れないだろうから』
  岡 ひろみ 『コーチ!おかげんはいかがですか?』
  宗方 仁 『ああ、とてもも気分が良い』
210 岡 ひろみ 『そうですか!よかった!あの・・・これ・・・これを・・」
  宗方 仁 『準優勝メダルか。よくやったな、良い試合だったぞ』
  岡 ひろみ 『あ、テレビでご覧になったんですか?』
  宗方 仁 『いや、生の試合を見た』
  岡 ひろみ 『えっ!?じゃ・・アメリカに・・・!?』
  宗方 仁 『あとから行くと言ったろう』
  岡 ひろみ 『コーチ!・・コーチ!』
  ひろみは夢の中にまどろんでいた。
  竜崎 麗香 「ひろみ、ひろみ・・もうすぐ羽田よ」
  岡 ひろみ 「は・・・支度しなくちゃ。えーと、メダルはすぐコーチに見せられるように上着のポケットへ・・」
220 竜崎 麗香 「ひろみ」
  岡 ひろみ 「はい!」
  竜崎 麗香 「渡米前に父がした話を覚えていて?」
  岡 ひろみ 「はい、覚えてます」
  竜崎 麗香 「では、日本庭球界の第3の悲劇と言われたふたりの選手について何か知っていて?」
  岡 ひろみ 「いいえ、知りません」
  竜崎 麗香 「・・・宗方 仁、桂 大悟。それがそのふたりの名よ」
  岡 ひろみ 「宗・・方・・って、あの・・宗方コーチの事ですか!」
  竜崎 麗香 「ええ」

「全くタイプの違う若手で力も5分と5分。どちらも素晴らしい選手だったわ!シングルスでは1年おきに全日本タイトルをとりあい、ダブルスでは無二の親友として一糸乱れぬ試合を見せ・・・ところが5年前、全日本を前にした軽い練習試合で、桂選手の球を追った宗方選手はひどく転んで右ひざを痛め再起不能を宣告され・・そして、その一球を打った桂選手も宗方選手とともに庭球界を去ってしまった」

「それが大体のあらすじ・・・」

  岡 ひろみ 「わたし・・・その桂大悟という方に会いました!」
230 竜崎 麗香 「いつ!どこで!」
  岡 ひろみ 「渡米の前に宗方コーチのお宅で紹介されました。お坊さんの格好してらっしゃいました」
  竜崎 麗香 「そう・・・紹介されたの・・・宗方コーチは・・・本当にあなたに夢を賭けたのね!」
  岡造園事務所。家へ帰ったひろみに父から預かり物があると日記を渡された。
  岡 ひろみ 「日記?・・・誰の・・?」
  宗方 仁 『1月1日、テニス部の連中年始に来る。岡、今年がお前にとって良き年であるように』
  岡 ひろみ 『宗方コーチの字!!・・ど・・どうしてコーチの日記がわたしに・・・!?」
  宗方 仁 『1月3日、大悟から久しぶりの手紙。近々来るという。間にあって岡を紹介できるといいが』
  岡 ひろみ 「間にあって・・?」
  宗方 仁 『1月8日、昨日、大悟が来た。相変わらずの酒豪だ。岡を紹介できて良かった。岡、2年前俺が始めてあいつにお前の事を手紙で書き送った時、あいつはお前を男だと思ったらしい。あとで女とわかってえらく慌てていた』

『今ではお前の性格からクセから体のリズムから全てを理解している。俺達は16から22までペアを組み、あるいはネットを挟んで同じ白球を追った。その後の5年間も全く同じものを見つめて来た』

『まず”死”。次に”希望”。つまりお前だ』

240 岡 ひろみ 「どういうこと!?」
  宗方 仁 『1月12日、入院。良くて3年と言われた体が今日まで持ったのだ。せめてあと3日もてばお前を無事渡米させられる。いや、あと2日でいい。渡米前日、お前達の挨拶さえ受けられればいい。そうすれば事を伏せて送り出せる。岡、大悟は気性は激しいが情の深い男だ。お前を真から支えるだろう』
  岡 ひろみ 「な・・なにこれ・・な、何が書いてあるのかわからない・・」
  宗方 仁 『同じものを見つめて来た。まず、死。良くて3年を言われた体が・・せめてあと3日・・いや、あと2日・・そうすれば事を伏せて・・・』
  岡 ひろみ 「何が書いてあるのかわからない・・何が書いてあるのかわからない!!・・よくて3年・・せめてあと3日・・いやあと2日・・」
  宗方 仁 『1月14日、いよいよ明日だ。今日まで無事過ごせてもはや何も思い残す事は無い。父にも会えた。藤堂にも話せた。初めておれはこんなにも幸福だったのかと思う。なんと長い間、心が盲目だった事だろう。一片の恨みも無い。一片の悔いも無い。やっと自由になった。岡、いつでもお前と共にいる。お前に出会えて嬉しかった!』

「1月15日、一行渡米。岡、エースをねらえ!』

  岡 ひろみ 「白紙・・白紙!・・白紙!!・・・・1月15日・・一行渡米・・・・・」

「岡・・・エースをねらえ!」

  ひろみは宗方の日記を胸にその場に泣き崩れてしまった。宗方の最後の言葉がいつまでもひろみの頭の中に渦巻いていた。
  千葉 鷹志 『みんなどうしているのだろう。藤堂は尾崎はお蝶様は・・この息詰まるような夜をどう過ごしているのだろう。・・・・岡さん・・・!僕は無力だが君には藤堂がいる。そして桂選手がいる!お願いします桂選手!こうしていると岡さんの悲鳴が聞こえるようです・・・!』

『この写真の中のどれかを遺影に使ってもらうんだ・・宗方コーチは西校に来て救われたはずなんだ。西校で岡さんを見つけて初めてコーチの人生は生きたんだ・・・だから・・だから西校で生き生きと岡さんを教えていた時の顔を遺影として掲げて欲しいんだ!』

『・・・これがいい!・・・俺にはこんな事しか出来ない・・・・夜が明ける!』

  うつろな目でぼ〜〜っと膝を抱えて部屋の隅にうずくまるひろみ。一睡もせず夜を明かしたようである。ひろみの母が宗方の本葬が明日である事をひろみに伝えた。ひろみは大きな声を上げて母にすがりつき泣きじゃくった。

麗香がひろみの家に電話をかけている。

250 竜崎 麗香 「・・・失礼しました・・ごめんくださいませ」

「呆然として・・・ろくに食事もとらないそうです・・・」

『無理も無い!可哀相なひろみ・・・!」

  藤堂 貴之 『岡さん・・・』
  しとしとと雨が降っている。ひろみの流す涙雨なのか、いつまでも降り続いている。

宗方の家。藤堂、麗香、尾崎、千葉達が来ていた。宗方の祖父と祖母がいる。

  藤堂 貴之 「どうも突然伺いまして失礼いたしました。どうしても本葬の前にコーチに帰国報告をしたかったものですから・・・」
  宗方の祖父 「いいえ、よくいらしてくださいました。仁もさぞかし喜んでいる事でしょう」
  藤堂の胸に宗方の言った言葉がよみがえる。
  宗方 仁 『母子(おやこ)揃って逆縁の不幸をする。祖父母には全く申し訳ない』
  宗方の祖父 「ご存知か知れんが・・・わしらの娘は18で嫁ぎ・・・数年で幼い仁を連れてこの家に戻り・・・あっという間に・・・病んで死んでしもうた・・・そして今また可愛い孫の仁にも逝かれ老いたものふたりが、この広い家に残る・・・」

「それでも希望を持って今日を生きられるのは大悟君がいるから!岡ひろみ選手がいるから!君達がいるから!仁が生きたゆえに生じた素晴らしい魂の繋がりがわしらを奮い立たせる。仁の生きた27年はわしの生きた60余年に断じて勝るとも劣らぬ!」

「・・・もう大悟君には会ったね?」

  藤堂 貴之 「はい、アメリカで・・・」
  宗方の祖父 「フム・・・あの男の事だ。自分の事など一言も話してはなかろうが、君らにはぜひ知って欲しい。豪放磊落(ごうほうらいらく)、闊達(かったつ)、父上が一代で築いた一流会社をあの男なら立派に継いでゆくだろうと誰もが思っていたのだよ。5年前まではね・・・」

「5年前、仁の選手生命は終わった・そして、わしの助言をいれて仁がコーチとして立つ決心をした時、大悟君と仁の間に約束が出来た。すなわち、”打ち込むに値する選手に出会った時、桂大悟は宗方仁のあとを受けてその選手を育成する”・・が、その直後の彼の行動にはまわり中が度肝を抜かれた。その日の内に大学を退学。なんと、修行僧として永平寺に篭(こも)ってしもうたのだから!]

「これには仁も慌てていた。―― 大悟君が山をおりたのはそれから3年後。そして丁度その頃、仁は岡ひろみ選手に出会った・・!」

260 千葉 鷹志 「これを・・・・遺影にしていただけないでしょうか・・」
  前日、千葉がたくさんの写真の中から選びぬいた宗方仁の写真を手渡した。
  宗方の祖父 「おお・・仁が、こんな幸せそうな顔で・・・!!ありがとう・・・!だから我々は生きてゆける・・・ひとり娘に逝かれ・・たったひとりの孫に逝かれ・・・2度の逆縁にあいながら・・・なおかつこういう喜びがあるから・・人と人との繋がりがあるから、なお人生を感謝して生きられる・・・ありがとう・・・!本当にありがとう・・・!!」
  竜崎 麗香 「誰もが同じように、こうして一歩一歩、与えられた時を使い果たしてゆくのだ。気づこうが気づくまいが、見つめようが見つめまいが終わりに確実にくるのだ。だから問題は、その限られた時の中で、何を目指し、どこまで進みうるか・・・彼らは、なんと高い理想を掲げて事だろう。打ち込むに値する選手がいる保障など何もないのに。ひとりはその発掘に命を賭け、ひとりはその育成のため、己に生命(いのち)がけの修行を課した、なんという精神力!」

「雨が降る・・・ひろみの涙のような冷たい雨が・・・現実は厳しい・・しかし我々は彼らの青春から学ばねばならない。理想に向かう精神を!全力をあげて日本庭球界第4の悲劇を防ごう。あの宝石を潰してはならない」

264 ED 真夏のアリス

劇 終

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