小説 吸血鬼ハンター”D”より

原作 菊池秀行 ソノラマ文庫刊

第7章 吸血鬼ハンター死す(T)

D 17、8歳  ドリス・ラン 17歳
グレコ 24、5歳 

001 『時だましの香』を使ってドリスを救ったのはグレコであった。彼は、麗銀星とリイ伯爵の会話を盗みぎいた翌朝、つね日頃面倒をみているチンピラのひとりを面会人に仕立てて、麗銀星をロビーへ呼び出した。彼が降りてくる前にチンピラは消え、いぶかしげな麗銀星が部屋へ戻ったときにはもう、『時だましの香』は、ただの瓜ふたつの蝋燭にすり変えられていたのである。

それを手に、彼はフェリンゴ医師の家を見張り、バンパイアと化した医師がドリスを連れ出すや、察知されぬ距離を保ちつつ後を追った。彼はドリスを救い、恩義という枷(かせ)でがんじがらめにするつもりでいた。

ところが、少し事情がかわった。まっすぐ伯爵のもとへ向かうはずだった馬車が、突如出現した黒衣の娘に停止させられ、あまつさえフェリンゴ医師は娘に刺殺されてしまった。なにがなにやらわからぬまま、異変を察して馬車に近づいたグレコは、今まさにドリスの喉に爪を立てんとする凄まじい形相の女バンパイアを目撃し、必死に『時だましの香』を振ったのであった。

  ドリス・ラン 「う・・うーん」
  ドリスがひとつうめいて起き上がった。のたうつラミーカのどこかが身体にぶつかり、失神から醒めたのである。束の間のとろんとした目付きが、すぐラミーカに気づいてまん丸くなった。それから少し離れた地面に転がっているフェリンゴ医師とグレコを見た。
  ドリス・ラン 「・・・・先生・・・・一体どうして・・・・あんた、こんなところで何してるの!?」
  グレコ 「ご挨拶だな」

「その女にズタズタにされるのを助けてやったんだぜ。この闇夜にわざわざ村から追っかけてきてよ。・・・・心にとめてもらいてえな」

  ドリス・ラン 「先生もあんたが殺したの?」
  グレコ 「冗談じゃねえ。その女の仕業よ。だけど、おかげでおめえを助ける手間がはぶけたぜ」
  グレコは小さな炎を消さぬよう用心しいしい、片手でラミーカを後部座席へ移した。白衣の少女は何の抵抗も示さず座席の下へ丸まった。身じろぎどころか呼吸もしていないのではないかと思われた。
  ドリス・ラン 「伯爵の娘だね。先生をバンパイアに変えたのも、この女(ひと)?」
  グレコ 「いや、伯爵だ。おめえを誘いだす道具に使おうと、夕べ襲ったのさ」
010 あわてて口を押さえたが遅かった。ドリスは爛と光る眼でグレコをねめつけた。
  ドリス・ラン 「あんた、どうしてそんなこと知ってるの・・・・襲われると知ってて、先生に黙ってたのね。この卑怯もの!なにが・・・何が私を助けたよ。恩着せがましい!」
  グレコ 「う、うるせえな」

「助けてもらっといてぎゃあぎゃあ抜かすな。その話は後だ・・・今の問題はこの女をどうするかだ!」

  ドリス・ラン 「どうするかって?」
  グレコ 「決まってる。殺(ばら)すか、伯爵との取引の材料に使うかさ」
  ドリス・ラン 「なんですって!・・・・あんた、気は確かなの?」
  グレコ 「あたりきよ。他人事みてえな面するな。みんな、おめえのためなんだぜ」
  ドリスは茫然と、とてつもないことを言い出した荒くれ男の顔をみつめた。それからかすかに鼻を動かした。『時だましの香』の匂いに気がついたのである。

そういえば、月のさやけき夜だというのに、なんとなく陽光さんさんたる真昼みたいな、妙な感じがする。グレコが得意そうに言った。

  グレコ 「この蝋燭に入ってる香料のおかげよ。貴族の持ちもんで、昼と夜を逆にできるそうだ。これに火がついてる限り、この女は身動きひとつできねえ。貴族はおれたちに近寄れねえ・・・・そこでだ、おれは考えた。殺すのは簡単だが伯爵の娘じゃ後が怖え。だから、こいつの身柄と引き換えに、うまいこといって伯爵の生命をもらうのよ」
  ドリス・ラン 「そんなこと・・・・できるの?」
020 すがるような声に卑しく唇を歪めたグレコの表情を嫌悪し、眼をそらしたドリスは、そのとき、後部座席の下で息もたえだえのラミーカの白い顔を見た。

自分といくらも離れているとは思えぬ美しい少女。ドリスはほんのいっときでも、彼女を取引の道具に使おうとした自分の心を恥じた。

  グレコ 「いくら貴族だって、自分の娘が可愛くねえ親はありゃしねえ。だからよ、最初はうまく騙くらかすのさ。・・・・娘を金目のものと交換しろとかよ。安心してノコノコでてきたところを、ほれ、この香でひっ捕まえ、こっちの杭を心臓にぶすり。噂じゃ、死体は塵になって消えちまうそうだが、親父だの治安官だのに現場を目撃させときゃ、『都』の政府に話をつけるとき、立派な証人になってもらえなあな」
ドリス・ラン 「『都』?」
  グレコ 「い、いや何でもねえよ」

「・・とにかく、殺っちまやあ、貴族の富も武器弾薬もぜーんぶ、おれたちふたりのもんだぜ・・・・最高の功労者だからな」

  ドリス・ラン 「でも・・・この女(ひと)は村やみんなに何もしてないのよ」
  グレコ 「おきゃあがれ、貴族は貴族。人の生き血をすする化け物(もん)に変わりはねえぜ」
  ドリスは愕然となった。
  ドリス・ラン 『あたしもあのとき、この男と同じ人間だったんだ。いけない、たとえ貴族だろうと、いたいけな娘を父親をおびき出す道具になんか使ってはならない』
  この粗野な荒くれ男が、かつて自分がDに投げつけたのと同じ呪いの言葉を吐いている!きっとなって反論しようとしたドリスを、陰々たる声が押しとどめた。
  ラミーカ 「殺せ・・・・いま・・・・・ここで」
030 グレコ 「なにィ」
  かさにかかってにらみつけたグレコが、思わず息をのんだほどの凄烈極まる表情であった。真昼の陽光で全身が灼けただれるに等しい苦痛を味わっているのに、なんたる精神力であろうか。
  ラミーカ 「父上は・・・・私と自分の生命を引き換えになさるような、愚かな方ではない。わたしもおまえたちの取引の道具になどならぬ・・・殺せ・・・さもなくば・・・わたしがいつか、おまえたちふたりを殺す・・・・」
  グレコ 「この女(あま)ぁ」
  「グレコの顔が怒りと恐怖に紅潮したかと思うと、さっと杭をふりあげた。およそ自制心の欠如した男である。
  ドリス・ラン 「およし、身動きできない相手になにするのよ!」
  ドリスがその手を押さえる。ふたりは馬車の上でもみ合った。力はグレコが上だが、ドリスには父親仕込みの体術があった。ぱっと手をはなしざま、左足をしっかり安定させ、渾身の力をこめた右の廻し蹴りを男の胸板へ炸裂させた。
  グレコ 「ぐえっ!」
  狭くて足場もおぼつかぬ馬車の上だからたまらない。グレコはのけぞり、昇降口の扉に足をとられて馬車から転落した。

ドサッという鈍い音の方を見ようともせず、ドリスは座席から身を乗り出し、横たわるラミーカに話しかけた。

  ドリス・ラン 「安心して。あんな奴におかしな真似はさせないわ。だけど、黙って帰すわけにもいかないの。あたしのことは知ってるでしょう。一緒に家まで来てちょうだい。あんたの身柄をどう扱うかはそこで考えるわ」
040 低い、血の底から湧きあがるようなふくみ笑いが、ドリスの言葉を中断させた。
  ラミーカ 「ふふふふふ・・・何をしようと勝手だが、わたしはどこへも行かん」
  月光より白い美貌が、打って変わった自信たっぷりの邪悪な笑みを浮かべて自分を見上げているのを、ドリスは背筋が凍りつく思いで眺めた。
  ドリス・ラン 『知らなかった。グレコが馬車から落ちたとき、『時だましの香』が消えたこと!』
  引こうとした手を、これは氷のように冷たい手が押さえ、いまは夜目にも白い牙を形のよい唇からむき出しにして、闇の申し子は静かに立ち上がった。
  ラミーカ 「人間の娘になど触れることも汚らわしいが、わらわの手はその白い喉から溢れる血潮で清めるとしよう」
グレコなどとは較(くら)べものにならぬ凄まじい力でドリスは抱き寄せられた。身動きひとつできない。ラミーカの息は花の香りがした。血で育てた花の。

ふたつの影が、いや、ふたつの顔がひとつに重なった。

  ラミーカ 「ぎゃああっ」
  絶叫が闇をまどわし、すぐ消滅した。顔を覆ってふるえているのはラミーカであった。闇の中で彼女もみたのだ。いや、感じたのだ。二日前、父親がこの少女の喉に目撃したのと同じ聖なる十字の痕を!それは、バンパイアの吐息がかかったときのみ忽然と浮かび上がるのであった。

一瞬前まで圧倒的優位を誇っていたラミーカの突如の狂乱ぶりに、わけもわからぬままドリスは救われたと察した。

  ドリス・ラン 『逃げなくちゃ!』

「グレコ、無事?」

050 グレコ 「お、おお」
  ドリス・ラン 「早くお乗り!ぐずぐずしてるとおいてくよ!」
052 一喝し、手綱を握った手をひと振りする。急激に飛び出してラミーカをふりおとすつもりであった。だが馬は動かなかった。

吸血鬼ハンター”D”第7章 吸血鬼ハンター死す(T) 劇終

inserted by FC2 system