小説 吸血鬼ハンター”D”より

原作 菊池秀行 ソノラマ文庫刊

第6章 血闘――ひとり十五秒(V)

ドリス・ラン 17歳  フェリンゴ医師 60近い歳

001 やさしく肩をゆすられて、ドリスはうたた寝から醒めた。見慣れた温顔(おんがん)が笑っている。
  ドリス・ラン 「先生!・・・あたし、待ってるあいだに眠ってしまって」
  フェリンゴ医師 「いいんじゃ、疲れもたまろうて。ハーカーの治療に手まどって、わしもいま着いたばかりじゃ。おまえのところへ寄ってみたが、誰もおらなんだので、ひょっとしたらと思い急ぎ立ち帰ったが・・・何かあったのかの?ダンはどうした、あの若いのは?」
  あらゆる記憶と不安を取り戻して、ドリスは周囲を見まわした。婦人は帰宅したらしく姿は見えず、窓の外の樹も家並みも赤く染まっている。恐怖の時の開幕であった。
  ドリス・ラン 「あの・・・ふたりともペドロスの村へ隠れました。あたしはご挨拶してから後を追おうと思って・・・・」
  立ち上がりかけた肩に、ひんやりとした手が置かれた。ペドロスとは、ランシルバから馬で一昼夜とばしたところにある寒村の名だ。これでもいちばん近い隣村である。
  フェリンゴ医師 「ペドロスへ着くまで、必ず夜をむかえねばならぬのにか?」
  ドリス・ラン 「は、はい」
  フェリンゴ医師 「よしよし、何もきくまい。だがの、行くのならもっとましな場所があるぞ」

「ハーカーの家から戻る途中、思い切って通った北の森で見つけたんじゃがの」

  フェリンゴ医師は上着のポケットから一枚の地図を取り出して広げた。ランシルバを描いた地図だが、北の森の一ヶ所に赤い点が記されていた。近隣でいちばん大きく鬱蒼として、村人ですら奥まできわめたものはない大森林である。
010 フェリンゴ医師 「石壁の端がふと眼について、覆いかぶさった枝や蔓を切り払ったら出てきたのじゃ。古代の遺跡・・・一種の蔡祉場(さいしじょう)の跡らしかった。かなり広いので、その隅っこを覗いただけじゃが、運がいいというのかの、そこの石壁に遺跡の説明文が彫り込まれておった。・・・どうやら、バンパイア除けの施設だったらしい」
  ドリス・ラン 「じゃあ、そこに入れば、奴も追ってこないので・・・」
  フェリンゴ医師 「多分な」

「少なくとも、これからペドロス村へいったり、わしの家にたてこもるよりはましじゃろう・・・行ってみるかの?」

  ドリス・ラン 「はい!」
  五分とたたぬ内に、ふたりはフェリンゴ医師の馬車に揺られて、蒼茫たる道を北の森へと急いでいた。一時間近く走っただろうか。前方に、闇よりも暗い木々の連なりが小さく見えてきた。森の入り口である。
  フェリンゴ医師 「うっ!」
  馬車に乗って以来、どう話しかけても返事をしなかった老医師が、不意にうめいて手綱を引きしぼった。

森の入り口に、小さな影がひとつ立っていた。ドリスははじめてみる顔だが、白蝋のごとき肌の色と唇の脇からこぼれる白い牙・・・・いうまでもなくラミーカである。ドリスはすぐ正体を察し、なお鞭をふり上げようとする医師の手をつかんだ。

  ドリス・ラン 「先生!あれが伯爵の娘ね・・・一体、どうしてここに!?早く逃げなくちゃ」
  フェリンゴ医師 「おかしい」

「こんなはずはない」

  ドリス・ラン 「先生、早く向きを変えて!」
020 必死の叫びにも、医師は凍りついたように動かず、逆に向こうの白いドレスの女が、足を動かした風も見えないのにすーっと草をかきわけてこちらへ向かってきた。ドリスはついに鞭を握りしめて立ち上がった。

その手が恐ろしい力でぐい、と引かれ、あっという間に鞭は奪い取られていた。フェリンゴ医師の手に!

  ドリス・ラン 「せ、先生!?」
フェリンゴ医師 「それは昨日までの名じゃ」
  N 牙のはえた口でフェリンゴ医師は言った。

・・・・そういえば病院でドリスの肩に触れた手が冷たかったこと。それに、滅多に着ないハイネックのシャツ。絶望と恐怖に身をひねろうとした刹那、拳が鳩尾(みぞおち)に吸いこまれ、ドリスは助手席で昏倒した。

  ラミーカ 「よくやった」
  フェリンゴ医師 「ラミーカさまですな、おほめにあずかって光栄です」
  N 血走った眼と、餓えに歪んだ口・・・フェリンゴ医師の笑顔は、もはや貴族のそれであった。彼は夕べ伯爵に襲われ、バンパイアと化していたのである。

ハーカー家への診療も、古代の「バンパイア除け遺跡」も、むろん嘘っぱちだ。彼は伯爵の命を受けて、昼は地下室に潜み、夕刻、Dが立ち去ったところを見はからってドリスの前に現れ、彼女を村からおびき出す役を実行したのであった。

Dを引き離せば、ドリスは必ず医師を頼る。・・・・伯爵の読みはみごと適中した。

  ラミーカ 「その娘、父上のもとへ連れていくのじゃな。わたしも同行しよう」
  N 同じバンパイアだというのに、冷徹の眼を向けながら切り口上で言うラミーカに、フェリンゴ医師は警戒の表情をつくった。彼は森の奥で待つ伯爵のもとへドリスを連れて来るよう命じられたのであり、ラミーカがくるとはきいていなかった。それが、森の入り口で急に現れ一緒に行くという。なぜ父親と一緒にいないのか?

しかし、伯爵の下僕となったばかりの医師に、主人の娘に対してそう問うことは許されなかった。後部座席の扉を開けて「どうぞ」と一礼する。ラミーカは魔風のように馬車へ移った。馬車は走り出した。

  ラミーカ 「人間にしては、なかなかの美形じゃな」
030 フェリンゴ医師 「左様。人間であるあいだは娘のごとく思い、そのような眼でのみ見ておりましたが、こうなってみると、なぜ手をつけなかったかと不思議なくらいの美女。何を隠そう一、二滴でも赤い血潮のおこぼれを頂戴するつもり」
  N これが、あの温厚篤実な老医師の言葉であろうか。彼はつい先々日、生命をかけて守り抜こうとした娘の生き血をすする幻影に我を忘れ、歯さえも卑しく鳴らしていた。

背後からラミーカの浮き浮きするような声がきこえた。

  ラミーカ 「その前に、わたしから褒美をやろう」
  N ふり向く暇も与えず、隠し持っていた鉄製の矢で老医師の心臓を貫いて即死させ、死体を地面に投げ落とすや、ラミーカは楽々と宙をとんで御者台に移り、すぐ馬を止めた。
  ラミーカ 「さぞかしお怒りになられるだろうが、下賎の虫けらから栄光あるリイ家の一員・・・しかも、父上の妻にむかえるなど、わたしはどうしても承服できぬ」
  N 眠りつづけるドリスへむけられた眼に、なんとも凄まじい鬼気が宿ってきた。荒野の果てに狼の遠吠がきこえた
  ラミーカ 「身のほど知らずの人間の女・・・いま、八つ裂きにして父上と会わせてくれる」
037 ドリスの喉もとへ両手をのばす。刃物のような鍵爪が光った。闇に閉ざされた荒野の真ん中で、守るものもなく無心な昏睡をつづける少女よ、危うし。そのときであった。

異様な「感覚」がラミーカの全身を突っ走った。全神経がねじれ灼き切れ、細胞という細胞がみるみる腐敗していく。溶け崩れた肉の間からどす黒い血液が噴き出し、胃の中のものすべてが逆流するような嘔吐感が内臓を引きねじる。・・そんな感じであった。

まるで、はじまったばかりの夜が、突如真昼と変じたかのようだ。

かぎ慣れた匂いがラミーカの鼻孔を打った。いつからそこにいたものか。背後の暗闇に一点小さな明かりが点り、ラミーカの苦鳴をききつけたらしく、用心しいしい草踏み分けて近づく足音がした。

人影の手にしているのは、「時だましの香」であった。

吸血鬼ハンター”D”第6章 血闘――ひとり十五秒(V) 劇終

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