小説 吸血鬼ハンター”D”より

原作 菊池秀行 ソノラマ文庫刊

第4章 妖魔の弱点(V)

ドリス・ラン 17歳  フェリンゴ医師 60近い歳

001 いまだかつて、人間が貴族・・バンパイアを捕獲した例(ためし)はない。彼らとの争闘はつねに倒すか倒されるかなのである。どちらが敗れる確率が高いかは言うまでもあるまい。ことに夜、貴族たちの世界で戦う場合、闘争者同士の肉体的能力、武器からみて、勝負の帰結は火をみるより明らかであった。
  フェリンゴ医師 「これじゃ」
  老医師は愛用の診療バッグから、ガラスの小瓶を取り出した。栓をした口もとまで黄色味がかった粉末で満たされている。
  ドリス・ラン 「なんですの?」
  ドリスの声に期待と不安が交錯した。フェリンゴ医師は答えず、さらにバッグの中から一通のすり切れた封筒をひっぱり出して、中の便箋を広げ、ドリスに差し出した。

黄ばんだ表面にのたくる樹液インクのしみに目を通した途端、ドリスはあれっという表情で医師の方を見た。

  ドリス・ラン 「これ・・・・父さんの」
  フェリンゴ医師 「おまえの親父殿が、おまえたちの生まれる以前、武者修行の旅先からわし宛に寄こしたものじゃ。だが、これは最後の一枚。読めばわかるが、親父殿とバンパイアの遭遇のことが書かれておる」
  ドリス・ラン 「父さんが・・・・バンパイアと!?」
  ドリスは絶句し、あわてて手紙を読みはじめた。最初の一、二行は、宿についたという報告。それが突然、字面(じづら)にも興奮と恐怖による混乱が表れていた。
  ドリス・ラン 「・・・おれは知った。彼奴らの弱点は、十・・・」
010 それだけであった。最後の文字の下には、黄ばんだざら紙の表面が空(むな)しくつづいている。ドリスは困惑の瞳を老医師にすえた。
  ドリス・ラン 「どうして父さんはこの後を書かなかったのでしょう?別の手紙には?」
  フェリンゴ医師 「親父殿は、宿でその手紙を書いている最中、バンパイアに襲われ、これを撃退した。そしてどうやら、我々が今なお知らぬ、貴族どもの弱点を発見したに相違ない。それは別の手紙にもはっきりと明記してある。ところが、妖魔をうち払い、心気を整えて、その発見を記そうとペンを取った途端、彼はそれをすっかり忘れていることに気づいたのじゃ」
  ドリス・ラン 「そんな!?・・・ど、どうして!?」
  フェリンゴ医師 「それは後で話す。とにかく、危険が去って五分もしないうちに、親父殿はペンを握ったまま茫然としている自分に気づいた。狂気のように、記憶をひっくり返し、頭をかきむしり、終いには、たったひとりで闘争の現場を再現しようとしたが、すべて徒労におわった。バンパイアの出現と拳をふるっての小競り合い。そして、間一髪のところで敵が逃亡したところまでははっきりしているのに、そのあいだ、自分の加えた決定的な反撃の手段とその経過は、きれいさっぱり頭の中から拭い去られておったのじゃ」
  ドリス・ラン 「どうして・・・どうして」
  フェリンゴ医師 「手がかりは最後の『十』の文字じゃが、親父殿はそれが何を意味するのか、ついにわからずじまいじゃった。彼はあらためて事態の経過を別の紙に書き取り、解答はわしの判断にすだねるとして、送りつけてきた。・・・・残念ながら、わしは期待に応えられなかったが・・・」
  ドリス・ラン 「それなら・・・・その”十”の謎さえとければ、貴族たちの弱点が発見できるわけですね」
  期待にうち震える声が急速にしぼんでいった。老医師の顔に、鎮痛より絶望に近い翳(かげ)りを認めたせいである。
  ドリス・ラン 「やはり、貴族はあたしたちに勝るのでしょうか?彼らに弱点などないのでは・・・」
020 地を這うようなドリスの声に、フェリンゴ医師は首を振り、「いや」と断定した。
  フェリンゴ医師 「ならば、彼らに弱みあるなどという言い伝えが、わしたちの世に伝わるはずがない。現に親父殿は、何らかの手段によってバンパイアを撃退したと明言しておるではないか。おまえの父は口が裂けても嘘はつかぬ。わしもまた、彼と似たような体験をした騎士や旅人の話をいくたりか耳にしたし、その当人とも実は面談しておるのじゃ」
  ドリス・ラン 「それで、何か?」
  フェリンゴ医師 「いや、すべてが親父殿の体験そのままじゃった。彼らは何らかの手段によって妖魔の毒牙を逃れた・・・というより、追い払った。にもかかわらず、その手段については、そろいもそろって何ひとつ覚えておらんのじゃ」

「近頃では貴族の弱点など、それこそ希望的”伝説”だと顧(かえり)みられもせぬようじゃが、わしが多くの文献をあさり、実例を集めた限りでは、まちがいなく弱点は存在する。人がそれを知り得ぬだけじゃ。わしはこれを記憶操作とみる」

  ドリス・ラン 「記憶操作?」
  フェリンゴ医師 「正確には、選択的自動記憶消去操作とでもいおうか。要するに、ある種の記憶のみを自動的に抹消するよう精神処置を施すことじゃ」
  ドリス・ラン 「貴族たちの弱点・・・・奴らを追い払う武器の記憶を?」
  ドリスは思わず老人の顔をのぞきこむようにした。その小瓶の粉末は、ひょっとしたら?不安と期待の入り混じった視線を受けながら、医師は淡々とつづけた。
  フェリンゴ医師 「一万年の長きにわたって、この世界を支配してきた連中のことじゃ。それらの記憶を選択的に消去するよう、人々のDNAや脳髄に働きかけるなど朝飯前にちがいない。これはかなり前から唱えられてきた説じゃが、これまでの研究の結果、わしもこの説の軍門に降(くだ)ることにした。どこの馬の骨とも知らぬやつの意見に与(くみ)するなど業腹(ごうはら)じゃが、正しいものは正しいでな。そうときまれば話は簡単じゃ」
  ドリス・ラン 「と、おっしゃいますと?」
030 フェリンゴ医師 「記憶を甦らせればよい」
  ドリス・ラン 「で、できるんですの?」
  老医師はいく分得意そうに、例の小瓶を掌の上でもて遊んだ。
  フェリンゴ医師 「その結果がこれじゃ。わしが面談した十二名の男女を催眠術にかけ、『都』から取り寄せた『再現剤』の力を借りて過去へと遡(さかのぼ)らせてみた。うち、ふたりが口にしたものが、この中身じゃよ。妖魔どもの科学も、記憶の完璧な消去までは不可能だったのじゃ」
  ドリス・ラン 「でも、先生の話が正しければ、先生もあたしも、もうすぐその粉末に関する記憶をなくしてしまうんじゃありませんか?」
  フェリンゴ医師 「いや、わしは平気じゃった。これも推測だが、記憶の消去は、実際に貴族どもの弱点を発見したとき潜在意識が確信したときにのみ作動するんじゃ。わしもおまえも、心の中では粉末の効果を信じ切っておらん。したがって、敵の仕掛けも働かんわけだ」
  ドリス・ラン 「では、何かに書き留めておけば?」
  フェリンゴ医師 「無駄じゃろう。それを読んでも、気狂いのたわごとと、書いた当人が思うだけじゃ」
  ドリス・ラン 「父の手紙にあった『十』なんとかが、その粉なのですか?」
  フェリンゴ医師 「恐らくちがうじゃろう。さんざか思案したが、これとあの文字はどうしても結びつかん。親父殿が大発見に興奮するあまり書き違えたという見方もできるが、わしはちがうと思う。なぜなら、他の試験者たちの記憶からは、この粉末の名がついに出てこなかったのじゃ。『十』の文字は、別のものと考えた方がよいじゃろう」
040 ドリス・ラン 「でも、その粉末のことは思い出してくれたのに、なぜ別のものは駄目なんですか?」
  フェリンゴ医師は口ごもった。それから、嘆息し、ドリスがきいたこともない重々しい口調で語りはじめた。
  フェリンゴ医師 「わしはつねづね、貴族と人間との関係、もっとはっきりいえば、貴族の人間に対する見方に、どことなく皮肉めいたものを感じてきた。いまのおまえにこんなことを言っても理解はできんじゃろうが・・・彼らはわしたちに一種の親愛感をもっているのかもしれん」
  ドリス・ラン 「なんですって!?貴族がわたしたちを友達だと思ってる!?・・そんな!」
  声よりも荒々しく、ドリスは首筋のスカーフに手をあてていた。生まれてはじめて、老医師に注がれる視線に怒りがこもった。
  ドリス・ラン 「いくら先生でも、そんな・・・・言うにことかいて・・・・」
  フェリンゴ医師 「そう怖い顔をするな」

「なにも、貴族のすべてがそうだと言っておるわけではない。どんなに歴史的事実を調査しても、親愛感どころか、人間の生命など機械以下にしか思っておらん行為の方が圧倒的に多い。心ばえからいっても・・・心があるとしてだが・・・奴らの九分九厘までは、おまえを襲った領主ごとき輩に違いない。しかし、残り一厘の可能性はあくまでも捨て難い。調べ上げた事実をすべて語るのは後日として・・・」

「一例をあげれば、なぜ自らの弱点とそれにつけ込む武器に区別をつけるかじゃ。すべて記憶から抹消してしまえばよいものを、なぜこの粉末は残し、謎の『十』なるものは消去したのか?多分この粉末は、『十』にくれべてさしさわりのない品なのじゃろう。果たして彼奴らは、わしたちをもて遊んでおるのか?この程度の弱点はにぎらせてやれという支配者の驕(おご)りか?ならば、最初(はな)から公開すればよいではないか」

「老いぼれが六十年の人生の半分を費やしただけのささやかな調査の結果じゃが・・・わしはこれを挑戦とみる。それも、ひとつの頂点を極めた滅びゆく種からの、いまは彼らの足元にも及ばぬが、やがて同等の高みにまで達し、さらには彼らを凌駕さえするかもしれぬ別の種への挑戦と。・・・・彼らはこう言っておるのだ。おまえたち人間がわれわれの後を継ぎたければ、自らの力でおれたちを倒し屈伏させてみろ。この粉末を手に入れたら、次は『十』の謎を解いてみせろ。といてのけたら、それを忘却の霧に閉ざされぬよう手を打ってみるがいい、と」

  ドリス・ラン 「まさか・・・・」

「それじゃあ、見習いハンターを教育する師匠そっくりじゃないの・・・」

  フェリンゴ医師 「これは、下級貴族にできる技ではない。ひょっとしたら・・・」
  ドリス・ラン 「ひょっと・・・したら?」
050 フェリンゴ医師 「全世界の”貴族”たちを束ねる千名の”大貴族と七名の”王”、そして、その頂点に君臨した伝説の大魔王・・大吸血鬼・・・王の中の王、彼こそが・・・・あやつ、吸血鬼ド・・・・・」
  そのとき、ドリスの顔にさっと緊張の波が走った。「先生!」と言い放った声は注意というより助けを求める叫びに近く、我に返った医師の顔もドリスを追って居間の窓へ向いた。

月明かりだけが清涼な草原には動くものの気配とて感じられなかったが、ふたりの耳は、遥かに遠く大地を蹴る蹄(ひづめ)と車輪(わだち)の音をききとった。

  フェリンゴ医師 「来よったか」
  ドリス・ラン 「歓迎の準備は整っています」
  たくましい女戦士の気力と表情を取り戻しながら、しあkし、少女は、胸の内で哀しげなつぶやきを洩らした。
055 ドリス・ラン 『やはり、間に合わなかったわね、D」

吸血鬼ハンター”D”第4章 妖魔の弱点(V) 劇終

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