小説 吸血鬼ハンター”D”より

原作 菊池秀行 ソノラマ文庫刊

第4章 妖魔の弱点(U)

吸血鬼ハンターD 17、8歳
ドリス・ラン 17歳  フェリンゴ医師 60近い歳

001 数分前からぬかるみかけていた腰までひたす水が、いまやはっきりと熱をおび、左右にそびえる石壁を舐めるがごとくに這う霧は、いっそうその濃さを増していた。

あたり一面、黒闇々(こくあんあん)たる闇の世界である。ダンピールの眼だからこそ、水路の幅まで見分けられたのだ。頭上をふりあおいでみたが、さすがに二十メートル彼方の落とし穴までは確認できなかった。無限の質量を誇る大岩壁の表面には出口などむろん見当たらない。

  吸血鬼ハンターD 「どうしたものかな」
  珍しく低いつぶやきを発して、そのくせ、あっさりとDは歩き出した。何かが待っている・・・。Dもそれは承知していた。前方七メートルほどのところで、水路が大きくひらけ、水面から奇怪な形状の岩がいくつも突き出している。霧がそのあたりだけ異常に濃く・・・というより、湧き出しているみたいにもうもうとたちこめ、岩以上に奇怪醜悪な姿によじれて水路を閉ざしていた。

進むにつれて、奇岩は数を増し、それに伴い白骨と臭気もおびただしく、ますます強烈になった。

数メートル先の水面が波立ち、ぽっかりと白い塊が浮き上がった。その右に遅れてひとつ。左にもうひとつ。闇の中で異様に白い・・それは、凄まじく妖艶で肉感的な女の首であった。度肝でも抜かれたのか。長剣を構えもせず棒立ちになったDをじっとみつめて、造作こそ異なるが、いずれ劣らぬ美女のその首は、赤い唇を歪(ゆが)めてにんまりと笑った。

  吸血鬼ハンターD 「噂にきいたことがある。ミドウィッチ蛇女とは、おまえたちのことか・・・」
  ミドウィッチ蛇女 長姉(真ん中)
「ほう、知っているのかえ」
  蛇女・・・互いに分離しているようにみえる三つの首は、実は古代伝説のハイドラのごとく、数メートル下までひとつにまとまり、そこから銀灰色(ぎんはいしょく)の鱗(うろこ)で覆われた巨柱のごとき胴が水中に没しているのである。背後の水音は、その胴の端・・・獲物を見つけた歓喜にうねる尻尾のたてた音なのであった。
  ミドウィッチ蛇女 次姉(右側)
「美形じゃの、姉者」
  ミドウィッチ蛇女 長姉(真ん中)
「久しぶりに、可愛がりのありそうな男。顔ばかりか、身体つきもなんとたくましい」
  ミドウィッチ蛇女 三女(左側)
「姉者たちは、先に手を出してはならぬ!」

三女(左側)
「五日まえに迷いこんできた漁師を、私が眠っているまにふたりで食らっておいて・・・今度は私が先じゃ。この男と法悦(ほうえつ)のきわみを尽くすのも、その頂点で生き血をすするのも」

  ミドウィッチ蛇女 次姉(右側)
「なにをいう!妹の分際で」
010 ミドウィッチ蛇女 長姉(真ん中)
「およし、姉妹喧嘩は」

長姉(真ん中)
「生き血の一番乗りはおまえがおし。ただし、可愛がるのは三人一緒じゃ」

  ミドウィッチ蛇女 三女(左側)
「おお」
  ミドウィッチ蛇女 次姉(右側)
「いいとも」
  三つの首は声もなくうなづき合い、炎の舌をチロチロと吐きながら、惚れ惚れしたような目でDの全身をねめまわした。
  ミドウィッチ蛇女 長姉(真ん中)
「でも、用心おし」

長姉(真ん中)
「この男、私たちを恐れていない」

  ミドウィッチ蛇女 次姉(右側)
「馬鹿なことを。私たちの正体を知りながら、脅えぬ物などいるものか。あの伯爵でさえ、餌のことで私たちを怒らせ、私たちが牙をむいたら、さっさと退散して二度と降りてこぬではないかえ」

次姉(右側)
「だいいち、恐れていずとも何ができる?男・・・そこから動けるか?」

  Dは無言であった。事実、彼は動けなかった。全身は、娘たちの首をはじめてみたときから、おびただしい無数の手にからめとられていたのである。
  ミドウィッチ蛇女 次姉(右側)
「わかるか?男」

次姉(右側)
「私たちの髪の毛じゃ」

  そうなのだ。蛇娘たちの首と胴が闇に溶けこんで見えないのも道理、その顎(あご)から下は、頭部から滝のように流れる数万条の黒髪にすっぽりと覆われていいるのであった。

知らず知らずのうちにDの腰から這いのぼった髪は、手首、二の腕はいうまでもなく、肩に首にと巻きつき、四肢の動きを完全に封じている。そしてなお忌(いま)わしいことに、この無数の腕は・・いや、触手の残りは、先刻から服の合わせ目、袖口などから侵入して、生身の身体をこすり、つつき、うねくり、Dを官能の虜にしようと励んでいるのであった。どれほど意志強固の人間といえど、数秒にして理性は溶け崩れ、煩悩の獣と化してしまう微妙な動き・・・誰ひとり耐えぬいたことのない、蛇女たちのみだらな責めがこれであった。

  ミドウィッチ蛇女 長姉(真ん中)
「どうじゃ、私たちが欲しくなってきたか?」

長姉(真ん中)
「本来ならば、この場で生命はもらう。このようにしてな」

020 その言葉を合図に、三つの首は空中で髪の毛をふるいわけるような動作をした。黒い滝が流れを変え、青黒い縞模様をつけた三本の長首と、それを支えるふたかかえ程もある胴体が現れた。長首はそのままぐーっとDめがけて下降し、黒髪の縄の虜となった逞しい身体にぐるぐると巻きついたのである。髪自体はなお、Dの服の内部で微妙に蠢きつづけている。
  ミドウィッチ蛇女 長姉(真ん中)
「いつでも、おまえの骨は折れる」

長姉(真ん中)
「だが、なんという美しい男・・・なんという逞しい男」

  ミドウィッチ蛇女 次姉(右側)
「ほんとうに・・・ここ三百年、絶えてなかった美形」
  次女の濡れた唇は背後からDの耳たぶをもてあそんだ。生臭い熱い息が耳孔(じこう)に吹きこまれた。
  ミドウィッチ蛇女 三女(左側)
「ただ殺しはせぬ。私たち三人がかりでこの世ならぬ法悦をたっぷり味わわせてから、骨の髄までむしりとってくれる」
  蛇娘たちの生命源は、必ずしも有機体を摂取することによって得られるエネルギーではない。逞しい若者、あるいは若鮎(わかあゆ)ごとき美少女を、妖魔のみがもつ奇怪な秘技で官能にうずく陰獣と変え、その最中に彼らのほとばしらせる歓喜法悦のオーラを吸収するのである。

三つの美しい顔は欲情のピンクに染まり、双眸は炎を発し、朱の唇からもれる熱い吐息は、Dの冷たく美しい顔を焼き焦がすかと思われた。なまめかしい三つの熟れた唇が、真一文字に結んだDの唇に迫った。それが重なる寸前、娘たちはみた。Dの両眼が真紅の閃光を放つのを!邪悪な脳髄を怪奇な衝撃が一撃した。その瞬間、三姉妹はこれまで味わったこともない甘美な刺激が全身を突っ走るのを感じたのである。

  ミドウィッチ蛇女 長姉(真ん中)
【かすれた声】
「ああ、唇を・・・・」
  吸血鬼ハンターD 「喉を出せ」
  それがDの声と理解するまもなく、三つの首は一斉に上を向き、その白いぬめぬめとした喉元を、Dの唇の前にさし出した。
  吸血鬼ハンターD 「髪をとけ」
030 Dの四肢はたちまち自由になった。右手の剣を鞘に戻し、左手にひと握りの髪をすくい上げた。
  吸血鬼ハンターD 「快楽の罠か・・・しかし、かかったのはどっちだ」

「やりたくはないが、出口を知る手だてはこれしかない。それに、おれには待ちびとがある」

  いうなり、眼と眉が一気につり上がった。唇が大きく裂け、白い牙が二本のぞいた。残忍邪悪な、それはバンパイアの顔であった。

次の瞬間、闇の中で何が起こったか。女のこの世のものとも思えぬ愉悦のうめきがあたりを領(りょう)しはじめたではないか。快楽の罠にかかったのは娘たちのほうであった。

やがて、重いものが水中に落下するような音が三度つづき、すぐに「起て」と命じるDの声がした。

三本の首の襟元に、青黒い小さな点がふたつづつ見えた。歯形である。いまは、もとの冷泉のごとき美しい無表情に戻りながら”三姉妹”に出口まで案内しろと命じる。声もなく空中の生首がうなずき、背後の闇へと動き出す。それを追ってこれまた闇へと消える寸前、Dの左腰のあたりで、嘲(あざけ)るような声が聞こえた。

  Dの左手 「いくら嫌がろうと、血は争えん。己の運命(さだめ)・・・身に沁みて知ったであろうが」
  吸血鬼ハンターD 「黙れ!出ろといった覚えはないぞ!引っこんでいろ!」
  怒号はまぎれもなくDのものであった。すると、最初の声の主は?また、Dの言葉の奇怪な意味は?そして、なによりも、冷徹そのものの彼の感情が、束の間とはいえ奔騰(ほんとう)した理由は?

落日の最後の残照が草原の彼方に消える頃、Dの帰りを待ちわびるドリスのもとへ、フェリンゴ医師の馬車が訪れた。

ドリスは当惑し、帰ってもらおうとした。辺境では貴重な医師を危険な目に遭わせるわけにはいかない。これは、自分たちだけの戦いなのだ。

  ドリス・ラン 「あの、先生・・・今日はちょっと、農園の手入れが忙しくて・・・・」
  フェリンゴ医師 「いやあ、構わんよ。往診の途中でな・・・水をいっぱい所望じゃ」
  手を振りながら、勝手にドアをあけ、スタスタと居間まで入り、ソファに収まってしまった。おまけに、先生、なんのつもりか、若かりし頃の”妖物”(タムドシング)相手の武勇伝をえんえんとおっ始め、ドリスは拝聴せざるを得ない事態へ追い込まれた。貴族がやってくるかもしれないのは承知のはずなのに、なぜ長居を決めこんでいるのだろう。

夜は刻々と更けてゆき、Dは戻らない。すでに、陽がおちた時点で、ドリスはひとり戦う覚悟を決めていた。自分の身体のみならず、医師の心配もしなくてはならないとは。

  ドリス・ラン 『あたしはどうなっても、先生だけは守らなくっちゃ。お願い、先生が帰るまで襲って来ないで』

『・・・どうなっても、なんて考えちゃいけない。あたしが奴らの仲間になったら、ダンはどうなるの・・・一生、身内が貴族の仲間だって重荷を背負って生きてかなくちゃならない。駄目よ、ドリス、手足を失っても奴は追い返すのよ』

040 時計の針が930Nをさすと、ドリスはきっぱりと宣言した。
  ドリス・ラン 「それじゃ、先生、あたしもう休みます」
  だから早くお帰りください・・暗にこう言わんとしたドリスに、フェリンゴ医師は立ち上がろうともせず、彼女が呆然とする言葉を吐いたのである。
  フェリンゴ医師 「そろそろ、危険な訪問者のあるころじゃな」
  ドリス・ラン 「ええ、ですから先生、早くお帰りになって・・・」
  フェリンゴ医師 「おまえは、やさしい子じゃな」

「だが、遠慮も時と場合によりけりじゃ。何を水臭い。十七年まえ、わしがこの手で取り上げ、それ以来、我が子とも思ってきた娘のことではないか。この老いぼれは、うら若い娘が地獄の悪鬼とひとりぼっちで戦うのを、黙って見ていられるほどできた人間ではないのじゃ」

  居間の入口に立って老人を見つめるドリスの眼に、静かに涙がひかってきた。
  フェリンゴ医師 「そう悲愴な顔をするな。こうみえても、おまえの親父にワーウルフ狩りの秘訣を教えたのは、フェリンゴ先生なのだぞ」
  ドリス・ラン 「それは知ってます。でも・・」
  フェリンゴ医師 「なら、泣きべそはよさんか。もっとも、きかん坊の泣き顔もたまに見るなら面白いが・・ところで、あの若いのはどうした?多分、護衛役に雇ったのじゃろうが、夜が近づくや、霧を霞と逃げ去ったか?・・・なんとなく、鬼気迫る感じの奴じゃったが、やはり、ただの根なし草だったか」
050 ドリス・ラン 「違います!」
  それまで感動した風に無言でうなづいていたドリスが、突如として全面否定の大声をはりあげたので、老医師はとびあがった。
  ドリス・ラン 「あの男(ひと)・・・いや、あいつは、そんな男じゃない。いえ、ありません、今夜ここにいないのは、ひとりで貴族の城へ乗り込んでったからなんです。なのに、まだ帰ってこない・・・きっと・・・きっと、何かあったんだわ・・・・・」
  フェリンゴ医師の瞳に、なんともいえない光が宿りはじめた。
  フェリンゴ医師 「おまえ・・・・そうだったのか・・・あいつをのう」
  ドリスは、はっと我に返り、あわてて涙を拭いた。
  ドリス・ラン 「なによ・・・別に・・・あたしは・・・その・・・・」
  顔を薔薇色に染めた少女に微笑みかけながら、医師はやさしく手をふった。
  フェリンゴ医師 「よしよし、これはわしが悪かった。お前の見込んだ男じゃ。案ずることはない。じき戻ってこよう。それまでに伯爵をひっとらえて度肝を抜かせてくれようか」
059 「ええ」とドリスも晴れやかな表情でうなずき、「どうするんですか?」と急転直下、不安げにたずねた。

吸血鬼ハンター”D”第4章 妖魔の弱点(U) 劇終

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