OVAアニメW
ブラックジャック

KARTE4:拒食、ふたりの黒い医者
初の大作映画出演を果たした女優ミシェルは、完成を間近に控え、
原因不明の拒食病になってしまう。彼女の治療を依頼されたブラックジャックの前に、
安楽死の天才とうたわれるキリコが姿を現す・・・。

ブラックジャック:大塚明夫
キリコ:山路和弘
ミシェル:土井美加
アルマン医師:滝口順平
アレックス監督:土師孝也
パトリック:秋元洋介
カティナ:氷上恭子

001 ブラックジャックM 『患者は生きようとしている。そう確信して医者は常に全力を尽くそうとする。そのうえで、結果として死を迎えるのならばそれは仕方のない事だ。だが時として人は苦痛に負け、絶望に身を委ねてしまうことがある』
  叩きつけるような雨の中をブラックジャックは、とある屋敷へと急いでいた。そしてまた、時を同じくしてひとりの男が同じ屋敷を目指していた。銀色の長髪を風になびかせ、左眼に黒い眼帯をした隻眼の男である。

扉が開いて部屋に入ってきたのは、その隻眼の男だった。ベッドに横たわる老人が力なく男に話し掛けた。

  《せりふ:屋敷の主人》
「ああ、待ちかねておりました。あなたのお陰で私もやっと救われる」
  Dr.キリコ 「ほんの少しお手伝いをするだけですよ・・私は」
  《せりふ:屋敷の主人》
「お礼のほうは・・」
  Dr.キリコ 「ご心配なく。ご子息が昨日、私の口座に振り込んでくださいました」
  男は手提げかばんを開ける。その中には奇妙なレベルメータが並んだ機械が入っていた。
  Dr.キリコ 「ベートーベンはお好きですか?」
  《せりふ:屋敷の主人》
「・・あ・・あぁ・・」
010 横たわる老人の耳にヘッドホンをかける。
  Dr.キリコ 「いいですか?いつものように音楽を聴きながら静かにお休みになる。ほんの少し深めの睡眠を・・」

「ただそれだけの事ですから・・」

  男が老人の手の甲に液体を注射する。機械のレベルメーターが上下に振れている。やがて老人は静かに目を閉じた。ボリュームをひねる。メーターがレッドゾーンまで振れていく。

屋敷の表にブラックジャックの運転する車が停まった。車から降りるブラックジャックと、屋敷から出てくる隻眼の男がばったりと出あった。

  Dr.キリコ 「おやおやブラックジャック先生、ここの患者の主治医はあなたでしたか」
  ブラックジャック 「Dr.キリコ・・・お前、こんな所で何をしている・・」
  Dr.キリコ 「さぁ・・お互い闇のプロフェッショナル・・訊きっこ無しって事で・・」
  Dr.キリコがゆっくりと階段を降りてくると、大型のバイクにまたがりエンジンをふかす。そして思い出したようにブラックジャックに言った。
  Dr.キリコ 「・・・あ、そうだ・・あんたの患者だがたった今、自然死したよ」
  ブラックジャック 「な・・・何!?」
  Dr.キリコはそのままエンジンをふかしバイクを走らせて去っていった。ブラックジャックはあわてて階段を駆け上がり部屋に飛び込んだ。

そこには両手を体の前で組み、眠るように死んでいる老人の姿がった。その傍らに、息子が目を閉じて静かに立っている。

020 ブラックジャック 「ば・・馬鹿な・・来週にはオペをすると約束したはずだ・・」
  《せりふ:老人の息子》
「申し訳ありません、ブラックジャック先生。父はもう・・疲れたと・・・。もう十分、生きたからと・・・」
  OP 「記憶の君へ」
歌:Another Moon
  映画撮影所、純白のウエディングドレスを身にまとっている一人の女性が、大道具の陰に座り込んで、肩で大きく息をしている。痩せぎすなその顔には生気が無かった。
  ミシェール 「はぁ・・・はぁ・・・・・はぁ・・・」
  パトリック 「いた、いた。ミシェール、本番10分前。そろそろセット入りと行こう。監督のご機嫌がいいうちにね」
  その様子をかたわらからじっとゴシップ誌の記者が眺めていた。
  《せりふ:ゴシップ記者》
「やっぱり今ひとつ顔色が良くないねェ、ミシェールさん」

《せりふ:ゴシップ記者》
「あぁ・・どうも、芸能イブニングです」

  パトリック 「6スタだよ、わかるねミシェール」
  ミシェール 「ええ」
  パトリック 「いい加減、つきまとうのは辞めてくれ!」
030 《せりふ:ゴシップ記者》
「彼女、どっか悪いんじゃないの?」
  パトリック 「健康ですよ!いたって」
  《せりふ:ゴシップ記者》
「本当かなあ?撮影中に何度か倒れたって訊いたよ?」
  パトリック 「う・・うむぅ・・」
  《せりふ:ゴシップ記者》
「今回の役は彼女には荷が重過ぎた。それで、無理が祟った」
  スタジオにミシェールが入った。監督が椅子から立ちあがり、ミシェールをじィっと見つめた。
  ミシェール 「お待たせしました」
  アレックス監督 「君は世界一真っ白で、透明な存在だ。出来るねミシェール?」
  ミシェール 「はい、監督。わたしやります、絶対!」
  スタジオの隅で、なおも男は絡んでいた。
040 《せりふ:ゴシップ記者》
「それにな、どうしても世間が納得してねえ。あのアレックスのような名監督が二流のポルノ女優を主役に抜擢するなんてさ・・」
  パトリック 「彼女の演技力は確かさ。世間が過小評価していただけだ」
  《せりふ:ゴシップ記者》
「金か?色仕掛けか?どっちだい・・?」
  パトリック 「ん・・う・・この下衆野郎!」
  なおも食い下がる男を、パトリックは殴りけり倒した。男はスタジオの床に吹っ飛び転がった。

眩いライトがミシェールを照らし出す。

  アレックス監督 「シーン85、ラストシーンだ!一気に行くぞ」

「用意、スタート!」

  カメラが回り、最終シーンの撮影が始まった。結婚式で礼拝堂を進んでいくシーンである。カメラがミシェールを追う。ミシェールが笑顔をつくってカメラを見た。その時だった、彼女は一瞬意識を失い、床に倒れた。慌ててパトリックが走り寄る。撮影所がざわめいた。この日の撮影は中止となった。
  ミシェール 「・・ごめんなさい監督・・ごめんなさい・・」
  病院で医師がミシェールの診断結果をパトリックに説明している。
  《せりふ:医師》
「過労と栄養失調症の兆候がみられます。静養が必要ですね」
050 アレックス監督 「・・・わかった。撮影を一週間延期するとしよう」
  パトリック 「そうしていただければ・・」
  アレックス監督 「リフレッシュしてラストシーンだ・・・もうひと頑張りだよ、ミシェール」
  ミシェール 「ありがとうございます監督」
  アレックス監督 「きっといい作品になる、次回作も君で行きたいと思っているんだ」
  パトリック 「じゃ・・失礼します、監督」
  アレックス監督 「ああ、また」
  車を走らせるパトリック。後部座席にミシェールが憔悴して座っている。
  パトリック 「無理しすぎだよ、役作りといっても限度がある。少しは栄養取らないと・・・」

「立ってるのも辛いんだろ?」

  ミシェールのホテル。暖炉に火がともる。ミシェールが椅子に座り、ぼ〜っと、オレンジの盛られたバスケットをみつめている。ミシェールはふらふらと立ち上がり、おもむろにオレンジにかじりついた。何か必死に食べているような気配である。しかしすぐにむせかえり、全てを吐き出してしまった。

翌朝、パトリックがミシェールの部屋を訪ねてきた。

060 パトリック 「おっはよ〜、ミシェ〜〜ル!栄養たっぷり、ご機嫌な朝食をプレゼント。レストランカルテェの特製。君のためにチーフに作らせたんだ。さあ、元気出して。素敵な笑顔を見たいなあ〜」

「ミシェール?起きといで、ジャーマネのパトリックさんですよ。ミシェ〜・・」

  ベッドの上にパトリックに宛てた手紙が置いてあった。
  ミシェール 『必ず連絡します。どうか探さないで。親愛なるパトリックへ。ミシェール」
  ブラックジャックM 『スイスでの診療を終え、アルルで休暇を過ごしていた私に新たな依頼が入った。私の休暇はいつもこうして中断される。今度は電話も通じない海の底にでも潜ってみよう』
  スイス、カオール。シャバノン村。ブラックジャックは一軒の安酒場に入った。そこには小太りの男が待っていた。男はブラックジャックを見つけると駆け寄ってきた。
  アルマン医師 「アルマン・ロシャスです。ブラックジャック先生、あなたが本当に来てくださったなんて夢のようです。こんな田舎の開業医ですが、私も医者の端くれとして先生のお名前はかねがね、伺っておりました」
  アルマン医師の運転する車がのどかな田舎道を走る。
  ブラックジャック 「原因不明による拒食と伺っているが」
  アルマン医師 「あぁ・・とにかく本人に会ってやってください。可愛そうに20日間も、飲み物以外は流動栄養物さへも受け付けないんです」

「美しい娘だったのに、なんとも気の毒で」

「私の姪でしてな。医者の私の助けを求めてきたんですが、どうもならんのです。普段の患者は牛や馬ばかりですので・・すると姪はこう申しました」

「20万ドルあるから、世界一の名医ブラックジャック先生にお願いしてと・・」

  アルマン医師の診療所。2階へ上がるアルマン医師とブラックジャック。アルマン医師が扉をノックする。
070 アルマン医師 「お連れしたよ、ミシェール」
  扉を開ける。窓はカーテンで閉ざされており部屋の中は薄暗かった。その中にぼう〜っと膝を抱えてうずくまる人影が見えた。
  ミシェール 「・・灯かりをすぐにつけないで・・・」
  アルマン医師 「あ・・ミシェール・・」
  ミシェール 「灯かりを点ける前に・・ブラックジャック先生にお願いがあるんです・・」

「・・・あたし・・実は今まで貯めたお金・・12万ドルしかありません・・・残りの8万ドルは今出ている映画のギャラなんです・・ギャラは映画が完成しない限り貰えません・・この私の病気が治らない限りラストシーンが撮れないんです・・・・」

「もし私がだめだったら・・12万ドルでゆるしてもらえますか?・・・」

  ブラックジャックが部屋の灯かりをつける。
  ブラックジャック 「ギャラは20万ドルだ。君は全快し、残りの8万ドルを支払う。・・・いいね」

「君は全快することだけを考えてればいい」

「・・さ・・横になるんだ。診察を始めたい」

  ミシェールはブラックジャックにしがみつき泣きながら懇願する。
  ミシェール 「・・う・・ぅ・・・私、出たいんです。・・映画に出たいんです。女優に・・ちゃんとした女優になりたいんです」
  ブラックジャックM 『患者はミシェール・ロシャス、32歳。ミシェール・プチという名で女優をしているそうだが、私は聞いた事が無かった』
080 試写室、アレックス監督が編集の済んだカットの確認をしている。
  アレックス監督 「OK、止めて」

「Bキャメラで撮った望遠のショット、あれを女のアップのあとにつないでくれ」

「女はな罪深さに魅力がある」

  アレックス監督は扉を開け、試写室を出て行った。表でパトリックが頭を抱えて椅子に腰掛けていた。アレックス監督を見つけて慌てて立ち上がり走りよった。

降りしきる雨の中、パトリックの運転する車が走っている。アレックス監督が助手席に乗っている。

  パトリック 「正直に申し上げます。10日目だというのに、まだ何の連絡もありません」

「あとワンシーンだって言うのに・・・あいつ、ほんと、何考えてんだか・・」

  アレックス監督 「今日、会社と交渉してね、あと一ヶ月の撮影延期を了承してもらったよ」
  パトリック 「監督・・・!」
  アレックス監督 「その間に、何とかあの子をつかまえてくれ」
  車を降りるアレックス監督。窓からパトリックが尋ねた。
  パトリック 「どうして、そこまでミシェールのことを?」
  アレックス監督 「おいおい、これも監督の仕事のうちだ」
090 ベッドに横たわるミシェール。ブラックジャックが診察している。
  ミシェール 「わたし17の時にパリに出て女優を目指したんです」

「アルバイトしながら演劇アカデミーに入って、懸命に勉強して、そしてやっと卒業。でも、最初の仕事が写真集のヌードだった。お金に困ってたから引き受けてしまったんだけど、あれがいけなかったのかもしれない・・」

「次がポルノ映画、そしたら次も、次も・・次もポルノ・・」

  ブラックジャック 「食欲が減退したのは?いつから?」
  ミシェール 「今度の出演がやっと決まって、3キロ痩せようと思ったんです。役がわたしの年齢よりもだいぶ若かったので感じを出すために3キロ・・」

「昼食を抜くだけの軽いダイエットでした。ところが・・計画どおりにダイエットが終わった頃から、段々朝食が食べられなくなり、次に夕食が・・そして遂に飲み物以外、体が受け付けなくなってしまったんです」

  階下でブラックシャックが診察記録を書いている。2階より降りてくるアルマン医師。
  ブラックジャックM 『点滴によるホルモン剤と栄養補給。取り敢えずは栄養失調症の進行を抑えなければならない。しかし、栄養輸液で補えるのは基礎代謝量の精々40%・・このままではいずれ患者は餓死する』
  ブラックジャック 「眠りましたか?」
  アルマン医師 「ええ、先生がいらしてくれた事で、いくらか気持ちが安定したのでしょうなぁ」
  ブラックジャック 「拒食症状は精神的要因によるものと片付けられてしまう場合が多いが、実際には消化管の腫瘍によっておこる時もある」

「あるいは、内分泌器官の障害によるホルモン系の異常・・」

  アルマン医師 「あぁ・・そうかぁ・・」
100 ブラックジャック 「内分泌器官に障害を来たすと食欲や栄養の摂取機能に影響が出ます」
  アルマン医師 「なるほど・・」
  ブラックジャック 「設備の整った所で精密検査をしたいのですが、手配できますか?失礼だがここでは・・」
  アルマン医師 「いゃ・・おっしゃる通りです。わかりました、お任せください」
  ミシェールが夢をみている。子供の頃の親友カティナとの想い出だった。
  ミシェール《少女》 『カティナ〜、カティナ〜』
  ミシェールが暗い坑道のようなところへカティナを探して入ってくる。そこは手作りの十字架が刺さった盛り土がしてある墓のような場所だった。
  ミシェール《少女》 『どこにいるのよ〜?』
  階段を駆け下りるミシェール。と、そこに痩せた犬の死骸を胸に抱き、土の上に横たわるカティナが居た。恐る恐る近寄るミシェール。
  ミシェール《少女》 『カティナ〜!』
110 ミシェールの問いかけに、カティナが突然眼を開け、歯をむき出して笑った。
  ミシェール《少女》 『きゃあ!』
  カティナ《少女》 『うふふふふ・・あははは・・』
  ミシェール《少女》 『もう!嫌い!カティナったらぁ!』
  カティナ《少女》 『うふふ・・ゴメン、ミシェール。・・ゴメン』
  ミシェール《少女》 『もう!』
  カティナ《少女》 『さぁ、またお葬式よ』
  坑道の土の上に犬の死骸を置くと土をかぶせ始める。その犬の死骸には不審な赤い斑点が無数に浮き出している。
  カティナ《少女》 『あなたが親族、わたしが牧師さんよ』

『願わくは、わたし達をして自らも死ぬべき者である事を覚える事が出来ますように・・』

  ミシェール《少女》 『え〜ん、え〜〜ん』
120 カティナ《少女》 『そして、兄弟姉妹と天の御国(みくに)で再会できる者とあることが出来るよう、唱えさせて下さい・・・』
  村を一望できる小高い丘の上、カティナとミシェールが座って将来の夢を語り合っている。傍らには花が咲き乱れ、春の息吹が渦巻いていた。
  カティナ《少女》 『わたしねミシェール、大人になったら何になると思って?』
  ミシェール《少女》 『わかんない』
  カティナ《少女》 『何でよ、わかるはずよ。作家、サガンのような世界的な作家。わたしの才能をあなたも見てるでしょう?』
  ミシェール《少女》 『うん、そうね。何でも知ってるし』
  カティナ《少女》 『あなたはミシェール?あなたは何になるの?』
  ミシェール《少女》 『う〜〜ん・・』
  カティナ《少女》 『言いなさい』
  ミシェール《少女》 『女優・・・』
130 カティナ《少女》 『えェ・・!』
  ミシェール《少女》 『女優よ。誰もがひと目見ただけで恋をしてしまうような女優!』

『・・・なんてちょっと内緒で思ってるだけ』

  カティナ《少女》 『綺麗になるわ、ミシェール。あなた大人になったらもっと綺麗になるわ』
  公立病院の検査室。ミシェールは横になり、胃カメラを呑んでいる。ブラックジャックがモニターを見つめながらアルマン医師に指示を出していた。
  ブラックジャック 「もう少しゆっくり・・食道から噴門部をよく見せて」
  アルマン医師 「了解」
  ブラックジャックM 『アルマン医師の後輩が医局長をしているという公立の病院で、精密検査を行なった。幸運にも最新の設備が揃った検査室に10時間の空きがあった。その時間内であらゆるケースを考え出来るだけのデータを収集しなければならない』

『体力の消耗度を絶えずチェックしつつ、ハードな検査を受けようとした』

『患者は良く忍耐し必要なだけの検査を全てクリアしてみせた。それはこの患者が生きようとしている、確かな・・証しだ』

  夕焼けの田舎道をアルマン医師の運転する車が走っている。公立病院で検査を終えたミシェールとブラックジャックが乗っていた。
  ブラックジャック 「そこの窓、閉めたほうがいいんじゃないのか?」
  ミシェール 「いいんです・・・とっても気持ち良い・・・」

「・・・おじさん・・カティナのお墓に寄りたいわ・・・」

140 アルマン医師 「この国道じゃ行けないんだよ、遠回りしないとね・・また今度にしようよ、ミシェール」

「カティナというのはミシェールの小さい時の友達なんです。ミシェールはアンジェという村で産まれ育ち、12の時両親が離婚して、いろいろあって、おじのわたしが引き取る事になりました」

「カティナという娘はふたつ年上で、ミシェールと良く遊んでくれていたそうです」

  ミシェール 「・・わたしは女優・・カティナは作家になるはずだった・・」
  アルマン医師 「わたしがこの娘を引き取って一年後、カティナは病死したそうです」

「病名は『肺炎』だったと聞いております」

  アルマン医師の診療所、2階の部屋。ブラックジャックが検査の結果を調べている。
  ブラックジャックM 『その夜のうちから、検査データの分析を始めた。栄養失調症による基礎体力の低下はあらゆる合併症を生じる危険があるからだ』

『細菌による感染率の上昇、心肺機能の異常、敗血症のおそれもある。原因解明への猶予は一刻も無い』

『消化官系に腫瘍の兆候は皆無、内分泌器官の障害も認められない。下垂体、副腎皮質系の機能がやや低下はしているが、これが直接痩せに関係しているとは考えられない』

『薬物によって食欲不振が起こることはよくあるが、薬物経験等による痕跡は何も検出されていない。血液反応も全て陰性』

『・・・と、すると・・大脳辺縁系の食欲中枢そのものの異常か・・・?・・・いや、CTによる脳の断層映像および脳波にも異常は発見できない』

  ミシェールの部屋からそっとブラックジャックの姿を見つめるアルマン医師。その時、ミシェールが言った。
  ミシェール 「焼きたてのパンに、マーマレード・・」
  アルマン医師 「え・・あ・・・」
  ミシェール 「それにスクランブルエッグを添えて・・」
  アルマン医師 「あ・・・ミシェール・・」
150 ミシェール 「やってみるわ・・また。ブラックジャック先生やおじさんに迷惑ばかりかけていられないもの」
  痩せ細ったその身を押して、ゆっくりとミシェールが階段を降りてくる。そのおぼつかない足取りでテーブルの前の椅子に腰をおろした。目の前には湯気の立つ、美味しそうな食事が並んでいる。
  ミシェール 「はぁ・・はぁ・・・・はぁ・・・おいしそう・・・・」
  ミシェールの声はぎこちなく震えている。震える手でパンにマーマレードを塗りひとくちほうばる。温かいミルクをぐっとこらえて口に流し入れる。ひとくち・・またひとくちミシェールは一生懸命、口へ入れていく。その時、猛烈な吐き気がミシェールを襲った。口から食べたものを噴き出すように吐き出した。

ホテルのラウンジ。ゴシップ記者が入ってくると奥のテーブルへと進んだ。

  《せりふ:ゴシップ記者》
「へへへ・・どうもどうも・・主演女優のマネージャーと監督さんに一編にお会いできるなんて、光栄の極み・・」
  パトリック 「ガセネタだったら承知しないぞ」
  《せりふ:ゴシップ記者》
「まあ、まあ、完成間近のフィルムをお蔵にしたくなかったら俺の話を聞きなって」
  パトリック 「行方を掴んだって、本当なんだろうなぁ?」
  《せりふ:ゴシップ記者》
「いえね、一週間ほど前の事、とある公立病院で精密検査を受けたそうですよ。ミシェール・プチでなく本名のミシェール・ロシャスでね」

《せりふ:ゴシップ記者》
「へへへへ・・これ以上は頂く物を頂かないと・・・・ああ、いや、わたしだってそれなりの情報ルートを使うにはそれなりの経費ってもんがかかってまして・・・」

  パトリック 「わかったよ・・・」
160 ミシェールはベッドに座って宝石箱を膝の上に置いている。ミシェールの指全部に指輪がはめられていた。
  ミシェール 「・・・ねェ・・カティナ・・変なの・・とても・・みて、このわたしの大好きだった指輪たちを。みんなわたしの指にピッタリおさまって美しかったのに・・ほら・・こうすると・・・」
  ミシェールが指を下に向けると、その骨と皮だけに痩せ細った指から指輪がバラバラと抜け落ち、高く澄んだ音を立てて床に散らばった。

ミシェールが立ち上がる。膝に置かれていた宝石箱が大きな音を立てて床に落ちて転がった。宝石箱のオルゴールが、澄んだ音を部屋中に響かせている。

アルマン医師が階段を上がり、ミシェールの部屋へ入っていく。

  アルマン医師 「ミシェール、どうしたね?」
  ミシェール 「逢いたい・・うぅ・・・カティナに逢いたい・・・」
  アルマン医師 「ミシェール・・・」
  ミシェール 「・・・!逢いたい!・・」
  アルマン医師 「あ・・・ミシェール・・・それどうしたんだね・・?」
  ミシェール 「えェ・・・・?」
  ミシェールは手鏡を手にとり自分の顔を見た。ミシェールの額に赤い斑点が浮き出していた。ミシェールは叫び声を上げ発作的に階段を駆け下り、アルマン医師の車に乗り込むとエンジンをかけた。アルマン医師がミシェールのあとを追う。ブラックジャックが窓から飛び降りると車の前に両手を広げて立ちはだかった。
170 ブラックジャック 「ベッドへ戻れ!勝手なまねはするな!」
  ミシェール 「どいて!」
  ミシェールはアクセルをふかせて車を急発進させた。ブラックジャックは咄嗟にボンネットに手をついて前に飛びのいた。
  アルマン医師 「ああ・・・大丈夫ですか・?」
  ブラックジャック 「あの・・額のエリテーマ・・どこかで・・見たような気がする・・」
  土砂降りの雨の中をミシェールの運転する車は疾走する。
  アルマン医師 「多分・・産まれ育ったアンジェ村へ向かったんでしょうよ」

「牧師さんの車、借りてきます」

  ミシェールの体に異変が生じていた。額に浮き出していた赤い斑点が、痩せて、肋骨の浮き出した胸にも出始めていた。ミシェールの意識は徐々に薄らぎ遠のいていった。やがて意識が完全になくなり、運転手を欠いた車は路肩を踏み外し、山肌を滑り落ちていった。

朝靄の立ちこめる河のほとり、男が携帯用ガスバーナーの上でソーセージを焼いている。傍のCDから静かな音楽が流れている。大型バイク、銀色の髪、それはDr.キリコだった。

Dr.キリコは立ち上がるとテントの中を覗き込んだ。

  Dr.キリコ 「栄養失調症もいいところだ。これを食べて」
  女が目を開ける。ミシェールだった。
180 Dr.キリコ 「手持ちのブドウ糖で取りあえずの栄養補給はしといたが・・・食った方がいい」
  ミシェール 「あなた・・お医者さん?」
  Dr.キリコ 「ふっ・・昔はね・・そんな事があったかもしれない。だが今は、一年中風来坊だ」

「時々、頼まれた時だけ仕事をする」

  ミシェール 「ベートーベン・・かしら?」
  Dr.キリコ 「わたしが作った」
  ミシェール 「ふ・・音楽家なんだ・・」
  Dr.キリコ 「音楽家か・・そいつはいい・・フフフフフ・・ハハハハ・・・」

「あの車、あれはもう駄目だな。レッカーで引きあげても使いものにはならない」

  ミシェール 「いい曲ね・・」
  Dr.キリコ 「さ、送るよ。かなりの重病人だからな」
  ミシェール 「このまま死ねたらいい・・・」
190 ミシェールが力なく倒れ伏した。駆け寄るDr.キリコ。橋の上にアルマン医師とブラックジャックの乗った車が止まった。アルマン医師が橋下のDr.キリコに手を振った。

アルマン医師の診療所。ミシェールは酸素吸入器を付けて横たわっている。その体は痩せさらばえて枯れ木のようである。体中に赤い斑点が浮き出している。

  Dr.キリコ 「そのエリテーマは、どこかで見たことがありますよ」
  ブラックジャック 「帰れ、わたしの診療の邪魔になる」
  アルマン医師がコーヒーを持って階段を上がっていく途中で降りてくるDr.キリコとすれ違った。
  アルマン医師 「お帰りですか?」
  Dr.キリコ 「お邪魔しました」
  アルマン医師 「あの、ディナーを・・お礼がしたいんです」
  Dr.キリコはバイクにまたがりエンジンをふかしている。
  アルマン医師 「じゃ、・・せめてお名前を・・」
  Dr.キリコ 「モーツァルト・・」
200 アルマン医師 「あァ・・?」
  Dr.キリコ 「ふふ・・・ま、いいじゃないですか。じゃ」
  Dr.キリコはエンジン音も高らかに走り去っていった。
  ブラックジャックM 『新たに生じたエリテーマは7箇所。衰弱の度合いもそれに正比例している・・どこかで見たはずだ、どこかで!くそ!』
  椅子に座り込んで疲れきった表情のブラックジャック。
  アルマン医師 「先生、食事の用意が・・」
  ブラックジャック 「あぁ・・ありがとう・・」
  ミシェール 「・・・シャワーを・・浴びたいわ・・・」
  ブラックジャックとアルマン医師が食事をしている。シャワーの水音がふたりに聞えている。
  ミシェール 「はぁ・・・はぁ・・・」
210 バスタブからあがり、鏡の前に立って自分の姿を見るミシェール。ミシェールはその場にへたり込んで涙を流した。
  ミシェール 「う・・ううう・・・・カティナ・・・わたし・・もう駄目・・・ふ・・ふふふ・・・」
  ミシェールは手首を湯船につけ、かみそりで斬ろうとしたところへ、異変を察したブラックジャックが飛びつきかみそりを奪った。

その夜、一台の車がアルマン診療所の前に停まった。

  《せりふ:ゴシップ記者》
「あ・・あった。医学博士アルマン・ロシャス。内科、小児科専門医」

《せりふ:ゴシップ記者》
「面会謝絶ぅ!そりゃねえでしょう!パリからはるばるやって来たんだぁ」

  パトリック 「とにかく会わせて下さい。これからの彼女の女優としての命が掛かっているんです」
  アルマン医師 「わしの姪は、本当の命が危ないんだ!」
  パトリック 「う・・うあぁ・・」
  診療所を出て行く3人、アレックス監督が戸口で立ち止まり再び中へ入っていった。
  アレックス監督 「一つだけお尋ねしたい」

「もしやミシェールの体中に赤い斑点が出始めているのでは?」

  驚いたアルマン医師はアレックス監督のほうへ向き直った。
220 アレックス監督 「やはりそうなんですね・・・」
  アルマン医師 「・・どうしてその事をご存知なんですか?」
  車の中から急かす声がする。
  アレックス監督 「先にホテルに戻っていてくれ」
  アレックス監督は診療所の扉をバタンと閉めてしまった。

診療所2階、ミシェールの横たわるベッドのそばへ、アレックス監督を連れてアルマン医師がやって来た。

  アレックス監督 「妹のカティナも死ぬ前にこの斑点が体中にできたんです」
  アルマン医師 「えェ!」
  アレックス監督 「アレックス・ルイという名で映画監督をやっておりますが、本名はニコラス・アレコ。カティナ・アレコの兄です」

「ミシェールは多分、わたしがカティナの兄だとは知らないはずです。小学校からわたしはパリの寄宿舎へ行かされてましたから。でも、ミシェールの名前は良く知ってました。カティナから届く手紙にはミシェールの事しか書いてありませんでしたからね」

「今度の映画の主演女優はオーディションで選んだんですが、驚きました、ミシェール・プチがあの、ミシェール・ロシャスであったと後でわかって・・」

  ブラックジャック 「妹さんは肺炎で亡くなったのではないのですか?」
  アレックス監督 「肺炎という事にしてもらったんです。あまりに奇妙で、哀れな死でしたから」

「何も食べられなくなり、枯れ木のように痩せ細り、最期は体中が赤い斑点で埋め尽くされて息をひきとりました」

「ミシェールに栄養失調症の疑いがあると聞いたとき、もしやと思い大変心配してました」

230 ブラックジヤックM 『18年前にも赤い斑点は、このエリテーマは存在した。ミシェールとカティナをつなぐ線はただ一つ。アンジェ村』
  ブラックジャック 「血圧が少し下がってる。点滴中にアミノフィリンを加えて60を切るようなら追加してください」
  アルマン医師 「・・はい・・」

「ブラックジャック先生・・・」

  ブラックジャック 「夜明けまでには戻ります」
  ブラックジャックは車に乗り込むと雨の中を車を走らせた。その時、診療所へ向かってくるバイクとすれ違った。Dr.キリコだった。Dr.キリコはUターンし、走り去った車の後を追った。

車に追いついたDr.キリコはトンネルの中でブラックジャックに一冊の本を手渡した。

  Dr.キリコ 「フッ・・これを見つけてきたんです。『第一次大戦後に禁止された化学および細菌兵器の全て』」
  ブラックジャック 「1921年・・国際病理学協会発行・・」
  Dr.キリコ 「フッ・・毒物のプロとしては、思い出すのに手間取りました。なんせ記録が古すぎて・・」

「238ページです」

  ブラックジャックM 『細菌は変種のエキノコッカスの体内でのみ生育しこの包虫を極めて毒性の高い兵器として完成させる』

「・・・馬鹿な!彼女からはこんな寄生虫は検出されていない!」

  Dr.キリコ 「もう一つ興味深い事実を進呈します。アンジェ村の近くこのあたりに、軍の火薬庫跡がある。だが本当は火薬庫ではなかった。細菌兵器の永久廃棄場所として使われていた」
240 Dr.キリコはバイクにまたがり、来た道を戻っていった。ブラックジャックは再び道を急いだ。

アルマン診療所、ミシェールが目を覚ました。ミシェールを見下ろすようにDr.キリコが立っていた。

  ミシェール 「・・・ぁ・・・」
  Dr.キリコ 「ちょっと遠くへ行くものでね」
  Dr.キリコはミシェールのシーツの上に、野辺に咲く花の束を置いた。ミシェールはその花を一本抜いた。
  ミシェール 「・・あぁ・・綺麗・・・いいな・・・わたしも行きたい・・遠くへ・・」

「変な事を訊くけど・・・安楽死を請け負ってくれるお医者様がいるって・・ほんとぅ?」

「ある人から聞いた事があるの・・安楽死のプロはお金さえ払えばいつでもどこでも好きなときに静かな死を与えてくれるんだって・・・え・・と・・名前は・・名前はDr・・Dr・・・・」

「・・もし知っていたら教えて・・その人に連絡をとりたい・・」

  Dr.キリコ 「お金が掛かるんじゃないですか?」
  ミシェール 「・・そっかぁ・・・わたしもう一文無しになってたんだ・・・・」
  Dr.キリコ 「でしょう・・じゃあ、駄目だ・・・フフフ・・」
  ミシェール 「・・フフ・・フフハハハハ・・・」《悲しく小さな笑い》
  ブラックジャックはミシェールとカティナの遊び場だった坑道へとやって来た。
250 ブラックジャックM 『明らかにそこは村の子供達の秘密の遊び場だった』

『そして、沢山の小動物たちの死骸は、地下10数メートルに永久廃棄されたはずの細菌兵器が、地上に這い上がり生き続けていた事を証明していた』

『カティナもミシェールもここで感染したはずだ』

  ブラックジャックは坑道の中にあった油のドラム缶に火をつけた。火は瞬く間に坑道の中を縦横無尽に走り抜け、勢いのついた炎は入口から一気に噴き上がった。

坑道から持ち帰ったネズミの死骸を解剖し、微に入り細にわたって調べ尽くしていく。そしていつしか朝を迎えた。

  ブラックジャック 「質問に答えられるかい?ミシェール」
  ミシェール 「は・・はい・・」
  ブラックジャック 「アンジェ村の火薬庫跡を知ってるね?」
  ミシェール 「もちろん・・」
  ブラックジャック 「最近行った事がある?」
  ミシェール 「ええ、今度の映画出演が決まって、その事をカティナのお墓に報告して、その帰り行きました・・懐かしくて」
  ブラックジャック 「その時に何か変わった事は?」
  ミシェール 「無いわ・・ぁ・・・ネズミに襲われて・・でも足に軽い擦り傷が出来たくらいで・・」
260 ブラックジャック 「ネズミに・・?」
  ミシェール 「ええ・・」
  ブラックジャック 「確かだね?」
  ミシェール 「はい・・」
  ブラックジャック 「では、これより直ちに手術を行なう」
  ミシェール 「え・・?」
  ブラックジャック 「もう一度頑張ろう」
  アレックス監督 「ホテルを引き払ってすぐに来い!手術だ!ミシェールの手術が始まる」
  ブラックジャックに抱きかかえられてミシェールが手術室に入っていく。扉が閉じられ、手術の開始を知らせる赤いランプが点灯した。
  ブラックジャック 「『傾前頭法』(けいぜんとうほう)を行ないます」
270 アルマン医師 「お願いします」
  ブラックジャックM 『結論は明らかだ。エキノコッカスの変異種は彼女の大脳辺縁系の食欲中枢に寄生している。通常、寄生虫が脳内に入り込む事は無いが、多分そいつは脳血液関門を容易に通過できるように、細菌兵器として開発されたのだった。そいつを発見、摘出すれば全ては解決する』

『しかし、問題が無かったわけじゃ無い。公立病院の最新機器で撮ったはずの脳の断層写真には、そいつのカケラさえ映っていなかった、と言う事だ』

『なぜ映っていなかったのか、ずいぶんと悩んだが答えを出してくれたのはあのネズミの死骸だった。あのねずみの脳を開いてみて全ては解決したのだ』

  ブラックジャック 「シルヴィウスくも膜を切開します」
  アルマン医師 「はい!」
  ブラックジャック 「メッツェンバーグ」
  アルマン医師 「メッツェンバーグ」
  ブラックシャック 「よし、視交叉部(しこうさぶ)に到達・・・ここだ・・絶対ここにいる」

「よし・・これだ!」

  アルマン医師 「いや!それは神経組織です!寄生虫ではない」
  アルマン医師の制止を無視し、ブラックジャックはその患部を摘み上げた。すると神経組織と見えたそれはみるみる姿を変え、不気味なエキノコッカスへ変化した。
  ブラックジャック 「擬態ですよ。寄生した相手とそっくりに自分の体型を変化させてしまうんです。だから、断層写真でも全く見分けがつかなかった。ネズミの脳にも全く同じ奴がいたんです」
280 アルマン医師 「なんてこった・・こんなのがこの世にいるなんて・・・」
  ブラックジャック 「心拍数は?」
  アルマン医師 「低レベルで安定」
  ブラックジャック 「では、縫合開始」
  アルマン医師 「縫合開始します」
  映画のラストシーンの撮影が始まった、そこには見事に復活し、きらきらと輝くばかりに美しいミシェールがいた。
  アレックス監督 「う〜〜ん、よしよし」
  《せりふ:ゴシック記者》
「へへ、やっぱ良いなあ・・ミシェール・プチは」
  パトリック 「何だよ、散々コケおろし記事書いてるくせに」
  《せりふ:ゴシック記者》
「商売は商売。あぁ〜〜良い〜〜」
290 パトリック 「あぁ・・見るなぁ!!」
  ED 「この想いつたえられると・・・」
歌:Another Moon

劇 終

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