ベルサイユのばら

フェルゼン編

20話 フェルゼン名残の輪舞
25話 かた恋のメヌエット
28話 アンドレ、青いレモン

オスカル アンドレ
マリー・アントワネット フェルゼン
001 N ベルサイユ宮、早朝の庭園。朝靄(もや)が恋人たちの姿を白く隠している。
  マリー

「どうしてこんなに夜明けが早いのでしょう・・もう、戻らなくては。」
  フェルゼン

「放したくない。たとえ日が昇り、二人の姿がフランス中の人々の目にとまろうとも、あなたを放したくはありません。」
  N

フェルゼンを見上げるアントワネットの瞳に大粒の涙が浮かんだ。
  フェルゼン 「どうか、泣かないでください。今あなたの涙を見てしまったら、私は今度会えるときまで、その時まで、地獄の中を彷徨わねばなりません。お願いです、どうかいつもの春風のような笑顔を。」
  N アントワネットは苦労して笑顔を作ると名残惜しそうに去っていった。残されたフェルゼンは、つい今まで抱いていた愛しい人のぬくもりが宿る両手をぎゅっと握りしめた。
  挿入曲 薔薇は美しく散る
  N ジャルジェ邸、庭でオスカルとフェルゼンが剣を合わせている。アンドレはりんごを囓りながら二人が剣を交わす様を見ている。

サンルームに場所を移してフェルゼンが訪問の理由を話した。

  フェルゼン 「別にこれといった話があるわけじゃない。ただ、たまにはおまえと剣の手合わせをしたくなってね。ありがとう。おかげで気持ちよく汗を流せた。」

「そうだ、アンドレ。いつか話していたろう、パリの安酒場。そこへ連れていってくれんか。たまには呑もう。」

010 オスカル 「フェルゼン、夕食の用意もさせている。もう少しゆっくりしていったらどうだ。」
  フェルゼン 「いや、また近いうちに、きっと。」
  N 結局、パリへは行かずにフェルゼンは馬に乗って帰っていく。それを見送ってアンドレが言った。
  アンドレ

「パリの安酒場へなんか行ってみろ。伯爵は五分と持たずに席を蹴立てて店を出なきゃならないはめになる。」

「もう町中が噂でもちきりだ。王妃マリー・アントワネット、そしてお相手はスエーデンから来た色男。ベルサイユに毎夜燃え上がる不倫の恋。噂が噂を呼び尾鰭がついてさらに広がっている。」

「今日みたいなフェルゼン伯をはじめて見た。何をしても辛そうで、かといって何かをしなければいられない。」

「そんなに辛い恋に何でのめり込むんだ。」

  N

オスカルは一言も言わずにアンドレの言葉を黙って聞いている。サンルームの窓辺に立つオスカルの顔を夕日が赤く染めていた。オスカルは外を見つめながら小さくつぶやいた。
  オスカル 「愛し愛されて何が辛い。うち明けることすらできない恋だってこの世には五万とあるんだ。」
  N 外を見ていたオスカルがアンドレを振り返った。
  オスカル 「剣をとれ、アンドレ。裏庭だ。」

「アンドレ、たまには手加減抜きだ。」

  アンドレ 「いいとも、俺も今日はそのつもりさ、オスカル。」
  N 二人は激しく切り結ぶ。アンドレはオスカルの剣を受けながら思った。
020 アンドレ 「オスカル、忘れちまえ、フェルゼンのことなんか。いや、忘れてほしい、お願いだ。」
  挿入曲 宮廷の情景モモ
  N ベルサイユ宮、庭園では野外昼食会が催されようとしている。貴婦人たちはうわさ話に余念がない噂の中心人物であるアントワネットが姿をみせた。
  マリー 「ようこそ、昼食会へ。どうぞ、皆さんごゆっくり。」
  N アントワネットはあたりをを見渡すと、フェルゼンの上で視線がとまった。しかし、アントワネットはフェルゼンには言葉をかけずに通り過ぎる。アントワネットは心の中で恋人に話しかけた。
020 マリー 『フェルゼン・・今宵、愛の神殿で・・お忘れになってはいないですね。』
  フェルゼン 『もちろんです。たとえどんなことがあろうと・・参ります。』
  N

オスカルがベルサイユ宮へ伺候する。貴婦人たちはうわさ話をしている。オスカルはその脇をそ知らぬ顔で通り過ぎる。オスカルは王妃の部屋へ入室すると敬礼した。
  オスカル

「お呼びでございますか、王后陛下。」
  マリー 「おまえたち、下がりなさい。」
  N 小間使いたちを退けると、アントワネットの瞳にはみるみる涙が浮かんだ。
  マリー 「あなただけが頼りなのです。オスカル・・聞いてくれるわね、私の頼みを。」
  N

アントワネットはうつむくと両手で顔を隠した。
  マリー 「それに、あなたしかいないのです、秘密を守ってくれるのは。お願い・・あの方に・・そっと伝えてほしいのです。私は今宵参れません。実はうっかりして、今宵陛下のご友人が訪問なさることを忘れていたのです。夜通しで陛下とともにゲームのお付き合いをしなければなりません。心から許してくださいと・・私のかわりに・・あの方に・・」
  N オスカルは静かな表情でアントワネットを見つめている。
030 マリー 「はいと言って、オスカル。言ってくれなければ、私は顔をあげておまえを見ることができない。」
  オスカル 「お顔をおあげください。どうして私がお申し付けをお断りすることができましょう。」
  N オスカルはそっと王妃の手をとった。王妃は椅子から立ち上がると両指を組み合わせ胸の前で祈りの形をとった。
  マリー 「ああ、やっぱりオスカル、おまえだけね。みんながいやなうわさをする中で、おまえだけが私の味方。」
  アンドレ 「オスカル、王妃様のご用は何だった?」
  N アンドレの問いにオスカルは応えなかった。彼女は野原を馬を走らせる。そのスピードにアンドレはついていくことができなかった。
  アンドレ 「おい、オスカル、どうしたんだ?」
  オスカル 「先に行け!後から帰る!」
  N オスカルはたった一人で馬を走らせた。川縁(べり)に馬を停めて、オスカルは呟いた。
  オスカル 「王后陛下、恐れながら申し上げます。陛下、フランス国家の母として、女王としてのご自分のお立場、お忘れでございますか。オスカルごときにものを頼むのに、罪を犯された人のように顔を隠されて。陛下の苦しいお気持ちもよくわかります。でも陛下、陛下にはお立場があります。」
040 N 風が川面を吹き抜けていく。雲行きがだんだん悪くなり、夕刻の太陽を灰色の雲が覆い隠していった。
  オスカル 「オスカル・・愛し愛されるものたちに何を言う・・か・・」
  N

オスカルは川岸に腰を下ろして冷たい水面を見つめながら自嘲した。彼女の頬を後から後から涙が流れては落ちていく。

オスカルがフェルゼンの屋敷を訪れた時には、すっかり夜になっていた。天候は雨となり、馬上のオスカルはずぶぬれになっていた。軍服の厚い布地が雨を含んでずっしりと重たくなっていた。
  フェルゼン 「オスカル・・・」
  オスカル

「そして、こう申された。来週の舞踏会を楽しみにしています・・とな・・」
  フェルゼン 「ありがとう、オスカル。」
  N フェルゼンの顔を少しの間見つめると、オスカルは馬の首をまわした。
  オスカル 「では・・」
  フェルゼン 「待て、オスカル、体を温めていけ。雨がやむまで休んでいけ。」
  N 引き留めるフェルゼンの言葉にオスカルは振り返らなかった。
050 フェルゼン 「オスカル・・・」
  N オスカルはたてがみに顔を埋めるほど前傾して馬を走らせている。前方から馬が近づいてくる気配に彼女は伏せていた顔をあげた。それはアンドレだった。
  アンドレ 「オスカル!この雨は体に毒だぜ。」
  N

アンドレはオスカルに外套を着せかけた。思いやりの込められたアンドレの笑顔に、オスカルの体温が高くなった。

フェルゼンの屋敷、雨は降り続いている。物思いに耽るフェルゼンにメイドが尋ねるが、心ここにあらずといった風で、返事も上の空であった。

フェルゼンの脳裏をアントワネットの春風のような笑顔が過ぎてりく。そして先日目の当たりにした、馬上で雨に濡れたオスカルの痛ましげな表情がよぎった。

  フェルゼン 「オスカル・フランソワ・・君はどう思う・・私はこれからどうすればよい・・」
  N パリの街角、雨は降り続いている。街頭では王妃とフェルゼンの道ならぬ恋を描いたハレンチなビラが売られていた。

《せりふ・売り子》
「さあ買った買った。新しいのができたよ。今度の奴はちと高いぜ。一糸纏わずフェルゼンに迫るの図、シリーズだ。さあさあ我らがフランスに泥を塗るオーストリア女とスエーデン男の恋、第2段だ、第2段だよ。」

再びフェルゼンの屋敷、フェルゼンは沈んでいる。執事が国もとからの知らせを告げた。

《せりふ・執事》
「フェルゼン様、ただ今お国もとより知らせが参りました。」

  フェルゼン 「知らせ?」
  N 《せりふ・執事》
「王立ストックホルム大学当時のご学友ヒンディスベリ伯爵様が亡くなられたそうです。戦死だそうでございます。」
  フェルゼン 「戦死?」
  N 《せりふ・執事》
「アメリカの独立戦争に参戦なされていたそうでございます。」

その頃大西洋を隔てたアメリカ大陸ではイギリスからの独立を求めて戦いが起こっていた。そして、フランスもアメリカに味方し、志願兵を募り遠征軍を送っていたのである。

ジャルジェ邸、雨は降り続いている。アンドレが車庫で馬車の車輪を調整していると、オスカルが声をかけた。

060 オスカル 「アンドレ、馬車の用意はしなくてもよい。私は今宵の舞踏会には出ない。熱をだして寝込んでいるということにしておく。」
  N 出ていこうとしたオスカルをアンドレが呼び止めた。
  アンドレ 「オスカル!」
  オスカル 「大声をだすな、馬がびっくりする。」
  アンドレ 「今夜の舞踏会は主だった諸侯がほとんど集まるおおがかりなものだ。近衛連隊長で、しかもジャルジェ家の跡取り、オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェが出席しなければ、おかしなことになると俺は思うな。」
  オスカル 「大がかりだからこそ、耐えられない。そんな中で人々の下品な視線と陰口を浴びせられるアントワネット様を見るに忍びない。」
  アンドレ 「だからさ、だからこそ、出なければいけないんじゃないのかい。アントワネット様はおまえだけが頼りだ。そして、フェルゼンだっておそらく。」
  オスカル 「私はそんな役回りはしたくない。お二人はお二人、私は私だ。私に何をしろというのだ。陰口を叩くものたちを切れというのか。下品な視線を送る者たちの目を潰せというのか。」
  アンドレ 「あっはははは。そいつはいいや。やってみようか。」
  N オスカルは握りしめた拳をおろした。胸にわだかまっていた塊が溶けて流れていくようで、オスカルはようやく笑うことができた。

ベルサイユ宮殿、しのつく雨の中、招待客が次々と集まってくる。アンドレが御者をつとめている。アンドレはオスカルに尋ねた。馬車の窓はとばりが下りていて、中が見えなかった。
  アンドレ 「オスカル、飛ばしてもいいか?少し遅れ気味だ。」
070 オスカル 「うむ。」
  アンドレ 「ようし、それっ!」
  N ベルサイユ宮殿、大広間には貴族たちがつめかけている。フェルゼンは一人佇んでいた。貴族たちが彼を見ながら遠巻きに囁いている。

《せりふ・貴族》
「あの男かね、スエーデンの色事師というのは。」

《せりふ・貴族》
「ご覧なさい、あの澄まし顔。世の中で自分ほどの二枚目はいないということですかな。」

《せりふ・貴族》
「どんな具合に気を引いたんですかな、王后陛下の?」

フェルゼンは誰かを探すように視線を巡らせている。

ベルサイユ宮殿、中庭 礼装を身に纏ったオスカルが馬車を降りると、アンドレは手放しで褒め称えた。

  アンドレ 「似合う、素晴らしい。」
  挿入曲 舞踏会
  N 青で縁取られた白い礼服に身を包んだオスカルが大広間に足を踏み入れると、人々の関心はオスカルの上に集中した。特に貴婦人たちは夢中である。

アントワネットはオスカルに近づくと真っ先に声をかけた。

  マリー 「オスカル、今宵はどういう風のふきまわしでしょう。ダンスなどしたことのないあなたが。」
  オスカル 「恐れながら、風は西からも東からも吹きそよぐものでございます。」
  マリー 「まあ、うふふ・・あなたのお相手は男の方かしら?それとも女の方?」
オスカル 「お望みのままでございます。王后陛下。」
080 マリー 「ただし、今宵のお相手は私一人に。」
  N 王妃は優雅な仕草でその手を差し出した。オスカルの言葉から、アントワネットはオスカルの礼装の意味を理解した。
  オスカル 「わかりました。」
  N

大広間の真ん中でオスカルとアントワネットは軽やかに踊った。フェルゼンは二人にグラスを掲げると酒を飲み干して去っていった。オスカルは大切な二人をスキャンダルから守ることに成功したのである。

舞踏会の帰り道、雨は止んでいた。夜は終わりに近づき、朝靄(もや)がたちこめている。アンドレが操る馬車の車中、オスカルは目を閉じて座っている。馬車の前方に人影があらわれた。フェルゼン伯である。彼はアンドレに合図して馬車を停車させた。

二人は川辺に立って話をしている。フェルゼンはオスカルに感謝した。

  フェルゼン

「ありがとう、オスカル。君があの礼装で現れなかったら、私は間違いなくアントワネット様と踊り明かしてしまったろう。お姿を見てしまえば、当然踊りたいと思う。踊ればきっと隠している感情も、他人には露わに見えるにちがいない。すんでのところであの方をまた途方もないスキャンダルに巻き込んでしまうところだった。出るべきではないと思いつつ出てしまった舞踏会。この私の思慮のなさがすべていけない。私に本当に人を愛す心があるのなら、愛する人の立場をもっと考えるべきであった。愛は抱いて決して恋に陥るべきではなかった。」
  N オスカルは無言でフェルゼンの言葉をきいている。馬車のそばに立って、アンドレは二人を見ている。湿気をふくんだ重い大気を透かして太陽が昇り始めた。
  フェルゼン 「あの方を苦しませてしまった。深く、たとえようもなく深く。今、私にできることはただひとつだ、敢えてあの方に対して卑怯者になることだ。」

「オスカル、私は逃げる、すまないが逃げるぞ。遠く、数千マイルの彼方へ。」

  N

フェルゼンはオスカルに背を向けて語る、その表情は晴れ晴れとしていた。フェルゼンはオスカルを振り返ると言った。
  フェルゼン 「アントワネット様の事を頼む。」
  オスカル 「フェルゼン、どこへ?」
090 N フェルゼンは馬車へ飛び乗り発車させた。オスカルは追いすがるがフェルゼンは答えず、馬車は走り去ってしまった。

出征する兵士たちの行進がパリの町を行く。その中に騎馬で進むフェルゼンの姿があった。

ジャルジェ邸、サンルームは光に満ちている。アンドレが窓辺に立つオスカルに話しかけた。
  アンドレ 「アメリカか・・思い切ったな・・フェルゼンも・・送りにいかなくてもいいのか?遠征軍の出発は今日だぞ。」
  N ベルサイユ宮殿ではアントワネットが報告をうけていた。

《せりふ・侍従》
「スエーデン軽竜騎兵大佐、ハンス・アクセル・フォン・フェルゼン伯爵は、アメリカ遠征軍に志願なさりラ・ファイエット候の副官として、本日ブレストの港より軍艦ジャゾウ号に乗り込み出発の予定でございます。」

アントワネットの瞳には涙が浮かんでいる。

  マリー 「もし間に合うのでしたら伝えてください。戦場にては勇敢に戦い勝利をおさめることを。そして、どうかご無事でご帰還をと。」
  N 馬上でフェルゼンは誰を思ってか振り返って空を仰いだ。

サンルームの窓辺に立つオスカルは一言も語らない。
アンドレ 「いけない、今日は馬の蹄鉄を代えてやる日だ。」
  N アンドレは部屋をでていった。
  オスカル 「死ぬな、フェルゼン」
  N オスカルの頬を涙が濡らすのを知る者は誰もいない。
  挿入曲 別れ
100 N

夕刻、野原でオスカルはアンドレを助手に短銃の練習をしていた。
  アンドレ

「今日はこのへんにしておこう。もう標的のびんがなくなった。」
  オスカル 「うん。わたしは馬を連れてこよう。」
  アンドレ 「オッケー」
  短銃をケースに片づけたアンドレはりんごをとりだした。
  アンドレ 「おーい、オスカル、りんご囓るかい?」
  オスカル 「もらおう。」
  アンドレは投げたりんごは銃声とともに空中で粉々になった。
  オスカル 「だ、誰だ?」
  夕陽に黒いシルエットが浮かんでいる。馬上の人物は陽気に二人に話しかけた。
110 フェルゼン 「はははは、申し訳ない、せっかくのりんごを。実は私の腕前もお二人に見せたくてね。変わりはないか、オスカル・フランソワ、相変わらず元気そうじゃないか、アンドレ。はははは、ハンス・アクセル・フォン・フェルゼン、たった今アメリカ大陸より帰還いたしました。」
  オスカル 「フェルゼン。」
オスカルは喜びのあまり一目散にフェルゼンの下へと走り寄った。馬上の人物が帽子を取ると、その顔は紛れもないフェルゼン伯であった。オスカルの表情は少女のように輝いている。銃のケースを小脇に抱えて、アンドレは立ちつくしていた。

ジャルジェ邸、ダイニングルームでの夕食。フェルゼンは旺盛な食欲を見せている。オスカルは胸がいっぱいで食事が喉を通らず、酒ばかり飲んでいた。アンドレがフェルゼンのグラスにワインを注いだ。
  フェルゼン 「ありがとう、アンドレ。」
  アンドレ 「いいえ。」
  オスカル 「独立戦争が終わってからもう二年だ。みんなすぐに戻ってきたのに、どこでどうしていた。」
  フェルゼン 「心配をかけてすまなかった。帰国間際になって熱病を患ってしまってね。それで一人でアメリカに残って・・寝たり起きたり・・思ったより治るまで時間がかかってしまった。」
  オスカル 「そうだったのか。」
  フェルゼン 「ああ、美味しい。本当に久しぶりだこんな本格的なフランス料理は。帰ってきたんだなフランスへと、つくづくそう思う。」
  オスカルはフェルゼンの顔を見つめながらアメリカ遠征に旅立つ前のフェルゼンの言葉を思い出していた。
120 オスカル 「本当に無事でよかった。」
  オスカルは心の底からそう呟いた。

三人は部屋を移して食後の酒を楽しんでいる。乳母が客間の用意ができたことを告げた。
  フェルゼン 「いや、オスカル、私は自分の屋敷へ・・」
オスカル 「あなたの屋敷へは明日使いをだそう。我がジャルジェ邸が責任をもってフェルゼン伯の旅の疲れを癒してさしあげますと。一週間でも一月でもどうぞごゆっくり。」
  オスカルは、はしゃいだ声で笑った。
  フェルゼン 「オスカル・・・」
  アンドレ 「本当にそうしてください。だって七年ぶりではないですか。ぼくもできたらお聞きしたい。アメリカでのお話など。」
  フェルゼン 「ありがとう、こんなに素晴らしい友に囲まれてありがとう。何もかも命すらも捨てていいと思って行った戦場だったが、生きていて・・よかった。」
  フェルゼンを見つめるオスカルのまなざしはこの上もなく優しい。アンドレがグラスを掲げて言った。
  アンドレ 「もう一度乾杯しよう。フェルゼン伯爵の数千マイルの旅からの帰還に。」
130 オスカル 「よし、乾杯。」
  アンドレ 「乾杯。」
  フェルゼン 「ありがとう。」
 

フェルゼンの目に涙が光った。

翌朝、フェルゼンが早朝の庭を散策しているのを自室の窓から見かけたオスカルは早速自分も後を追った。フェルゼンは噴水のあたりに腰を下ろして風景を眺めていた。
  オスカル 「ずいぶんと早起きだが、よく眠れたのか、フェルゼン。」
  フェルゼン 「ああ、たっぷり。早起きは戦場での癖でね、どうにもまだ・・」
  オスカルはフェルゼンの隣に腰をおろした。噴水は勢いよく飛沫をあげている。
  オスカル

「そうか、それならよかった・・できるだけ早く、帰還のあいさつに行ったほうがよい。ご心配なさっているはずだ・・王妃様も・・」
  フェルゼン 「いずれ・・とは思ってはいるが、お会いせずにスエーデンへ帰るつもりだ。」
  思いもよらぬフェルゼンの言葉にオスカルの身体が弾けた。
140 フェルゼン 「七年前、私は逃げたのだ、アントワネット様から。卑怯にも一方的に。そして終わったんだ、終わってよかった恋だった。フランスへはその事を自分自身しっかりと確認するために立ち寄っただけだ。もう燃えない、もう燃え上がらないということを。お言葉に甘えて私は一、二週間このお屋敷にご厄介になることに決めたよ。自分の屋敷に戻れば私が戻ったことが公になってしまう。頼むオスカル、絶対に王妃様には私が戻ったことを知らせないでほしい。」
  オスカル 「わかった・・」
  オスカルの胸中は複雑だった。

ジャルジェ邸に滞在中のフェルゼンはアンドレを相手にフェンシングや乗馬で汗を流している。
  オスカル

「思ってもみなかったことだけど、フェルゼンの心にもうアントワネット様はいない。本当だろうか、そんな事って。でももし、もしそれが本当なら、今ここにいるフェルゼンは、私がこの世でたった一人、愛してもよいと思った人・・ハンス・アクセル・フォン・フェルゼン・・」
  サンルームで三人はコーヒーを飲んでいる。
  フェルゼン 「そうそう、オスカル、君は首飾り事件での大活躍で大佐から准将へ昇格したそうだね。今朝ばあやが教えてくれた。」
  オスカル 「ええ、まあ・・」
  フェルゼン 「おめでとう。私だったら間違いなく、一気に将軍まで昇進させたのに。まったく、神があなたを女として生を授けたもうたのが不思議でならない、はははは・・・」
  屈託のないフェルゼンの言葉に、何と答えてよいのかわからずに、オスカルは目を伏せた。オスカルの気持ちを知っているアンドレはコーヒーを一口飲んだ。

ジャルジェ邸めがけて猛スピードで走ってくる一台の馬車があった。窓から銃が構えられ、ジャルジェ邸めがけて銃弾が撃ち込まれた。窓ガラスが割れて、近くにいたアンドレが床へ倒れる。オスカルが急いで駆け寄ると彼を抱き起こした。
  オスカル 「アンドレ大丈夫か怪我は?」
150 アンドレ 「いや、大丈夫だ。」
  フェルゼン 「ひどいことをする。何者だいったい。」
  アンドレ 「パリの市民の嫌がらせでしょう、おそらく。」
  フェルゼン 「市民がなぜ?」
  アンドレ 「最近多いのですよ。他の貴族の館もやられているそうです。首飾り事件以来貴族と王室に反感を持つ者が急激に増えているんです。いや、貴族の中にすら王室を離れ市民と手を組む者がいるそうです。」
  フェルゼン 「まさかそんな・・うすうす噂には聞いていたが・・」
  アンドレ 「あなたが七年間いない間に、パリもベルサイユもそしてフランス全体が少しずつ変わり始めているんです。」
  フェルゼン 「何がどういうふうにだ。」
  オスカルとフェルゼン、アンドレは貧しい身なりに身をやつして人々の声を知るために、街へ出た。
裏通りでは集会が開かれている。

フェルゼンは壁に貼られた王妃の肖像画に、ナイフが突き立てられているのを目にして愕然とした。彼は馬から下りると、ナイフを抜いた。

160 フェルゼン 「変わった、確かにフランスは変わった。私がいるころはたとえ悪口はあったにしろ、それでも王室は慕われていた。王妃様はまだ国民に愛されておられた。」
  ジャルジェ邸へ戻ったフェルゼンは暖炉の炎を見つめながら言った。
  フェルゼン 「オスカル、やはり私はベルサイユへ行こうと思う。今や王室は危機を迎えようとしている。こんな時私にできることといえば、忘れようとしても忘れられない愛する人のためにできることといえば、側にいてさしあげることぐらいしかない。誰になんと言われようと、愛する人の不幸を私は黙ってみてはいられない。」
  オスカルは何も言わずに静かに頷いた。

トリアノン離宮、王妃の御前にフェルゼンが跪いている。
  マリー 「よく・・よくもご無事で・・」
  フェルゼン

「陛下もお変わりなく。」
  アントワネットの頬を涙が静かに流れている。二人は抱きあうことはせず、アントワネットはフェルゼンの言葉を聞いていた。
  フェルゼン 「新しく起こるものの力には、燃え上がる火に似た勢いがあります。私はアメリカで身をもってそれを知りました。このフランスでも小さな火がいくつか燃え始めています。その火の粉が王室に降りかかる前に消し止めねばなりません。もし、お許しがいただけますならば、私はこれからの半生アントワネット様のお側にお仕えする覚悟でございます。七年の時を経て私は知りました。激しく心を燃やすことの愚かさを。そしてその危険を。もはや激しくは燃やしません。その代わり、静かにセーヌの流れのごとく永久に、あなたへの思いをこの胸に灯し続けるつもりでございます。」
  マリー 「セーヌの流れのごとく・・・」
  フェルゼン 「はい。」
170 王妃は椅子から立ち上がるとフェルゼンの前へと歩み寄った。フェルゼンは跪いたまま王妃の手に口付けをした。
  フェルゼン 「王后陛下、このフェルゼン、陛下の忠実な家臣として申し上げねばならないことがあります。この離宮より出て、ベルサイユ宮へお戻り下さい。陛下がここにお移りなさったために、多くの貴族たちが王室より心離れていったと聞き及びます。すみやかにベルサイユにお戻りになり、貴族たちを呼び戻すのです。今はせめて貴族たちだけでもお味方につけておかねばなりません。そしてポリニャック夫人やそのお仲間たちとも手をお切りください。一国の王妃がおとり巻きの意見のみを重要視され、お取り上げなさることは、国の民はもちろん王宮の中でも波風のもととなります。そのかわり、このハンス・アクセル・フォン・フェルゼン、故国スエーデンを捨てます。王妃様の御ため、このフランスに我が身全てをお捧げ致します。」
王妃は感動のあまり言葉もなく涙を流している。

同じ頃、オスカルは寝台に横たわり、物思いにふけっていた。支度をしたアンドレが部屋の戸をノックする。
  アンドレ 「オスカル、銃の練習の時間だがどうする?」
  オスカル 「ああ、今行く、下で待っていてくれ。」
  アンドレ 「オッケー。」
  アンドレが空に瓶を放るとオスカルは構えた銃で次々と撃ち抜いていく。一休みしたところで鳥が夕暮れの空を渡っていくのを見上げながらアンドレが言った。
  アンドレ 「見ろよオスカル、渡り鳥だ。帰っていくんだなあ、南へ。奴らはどんなに自由に大空を飛ぼうと、結局は帰っていくんだ、決まったところへ。誰にもとめられはしない、誰にも・・・」
  夜、オスカルがピアノを弾いている。何を想って弾いているのか。その音色を聞きながら、アンドレは握る手に力をこめた。

ジャルジェ邸、出仕の前の一時、オスカルはアンドレと朝のお茶を飲んでいる。

  アンドレ 「ポリニャック夫人やおとり巻きの権力が日増しに衰えているそうだ。それにしても喜ばしいことじゃないか。ついに今日アントワネット様は離宮よりベルサイユに戻りになり貴族たちとの謁見やその他の公務を再開なさる。おそらく、フェルゼン伯のご進言をお聞きになったんだろう。伯爵は今、正式に陸軍連隊付き員数外大佐として、毎日ベルサイユ宮へ伺候しているそうだ。」
180 アンドレを供に出かけるオスカルを乳母が見送った。

閲兵場、整列した近衛兵を前にすらりと剣を抜いて、馬上のオスカルは号令をかけた。

  オスカル 「全員三歩前へ。」

「ただいまより我が近衛隊はトリアノン宮よりベルサイユ宮まで王后陛下の警護にあたる。なお警護中、異状があればただちに報告、私の指示があるまで待機せよ。」
  その様子をバルコニーからフェルゼンが見下ろしている。視線を感じてオスカルが振り仰ぐと、彼は片手を軽くあげて応えた。
  オスカル 「よーし、持ち場につけ!」
  近衛兵が警護する中、王妃と王子たちを乗せた馬車が行く。少し高い場所からオスカルは全体を見ている。傍らにはアンドレとジェローデルがいた。突然、爆弾を手に数人の賊が突進してきた。オスカルの指示の下、近衛兵は賊に向かって一斉射撃をした。賊は爆弾で自ら吹っ飛ぶが、助かった一人が逃げだした。

オスカルは廃屋に賊を追いつめる。血の跡をたどると瀕死の傷を負った賊が銃を構えてオスカルを待っていた。彼女めがけて放たれた銃弾をオスカルは難なくかわした。

《せりふ・賊》
「フランス・・万歳・・」

そう言うと、賊は事切れた。オスカルは呆然と立ちつくすが、ふいに先ほど見たフェルゼンの面影が脳裏を過ぎる。その事にオスカルはショックを受け呆然となった。

  アンドレ 「しっかりしろ、オスカル、こんな時に何を考えている。」
  賊の死体が廃屋から運び出されるがオスカルは心ここにあらずといった様子だ。その事に気づいたアンドレが尋ねた。
  アンドレ 「オスカル、どうしたんだ、怪我でもしているのか?」
  オスカル 「アンドレ、あとのことはジェローデルに指揮をとるように言ってくれ、私は先に帰る。」
  アンドレ 「オスカル・・」
190 オスカル 『フェルゼン・・ああ、フェルゼン・・あなたは誰よりもあなたを必要とし、誰よりもあなたを愛する人のもとに戻っていった。七年の空白を越え、七年の苦しみを経て、なおあなたは戻っていった。すばらしいことだとオスカルは思います。すばらしい方だとオスカルは思います。あなたを心から・・はじめて・・一人の女として・・』
  挿入曲 変奏B
  ジャルジェ邸、乳母が忙しそうに走りまわっていた。
  乳母 「コルセットは・・と、パニエ、パニエ・・ストッキングは・・」
  アンドレ 「どうしたんだよ、おばあちゃん。」
  乳母 「ドレスを作ってしつこく待っていたかいがあったよ。」
  アンドレ 「ドレス?」
  乳母 「オスカル様がね、今夜の舞踏会に着ていくとおっしゃってるのよ。」
  アンドレ 「何?オスカルがドレス?」
  オスカル 「ああっそんなに締めるな胴が千切れる。」
200 乳母 「じっとしていてくださいまし。」
  オスカル 「痛いっ私の頭の皮を剥ごうというのか。」
  乳母 「セットでございますよ。ヘアーにはスタイルというものがあるはずでございます。」
  アンドレ 「正気かオスカル。俺のオスカルがちゃらちゃらドレスなんか着て、男どもと踊るっていうのか。へん、オスカルがドレスなど着てみろ。のっぽの案山子に布きれ被せるようなもんさ。見られるもんか。ははは・・・」
  乳母 「アンドレ、ちょっとおいで。」
  アンドレ 「はいはい、はーい。」
  乳母 「アンドレ。」
  アンドレ 「はいはい。」
  乳母 「ご覧よ、お嬢様のドレス姿。」
  アンドレ 「はいはい。」
210 祖母に促されて階段に足をかけたアンドレは踊り場に立つオスカルに目が釘付けになった。

その夜、舞踏会場に現れた謎の美女に客たちの関心は集中した。オスカルがゆっくりと視線を巡らすと、フェルゼンがいた。オスカルはフェルゼンの側まで歩み寄るが、その脇を通り抜けた。
  フェルゼン 「どこかで見たことが?」
  フェルゼンはオスカルの背中に声をかけた。
  フェルゼン 「奥様、一曲お相手を。」
  オスカルは無言で頷いた。楽団がメヌエットを演奏する。踊る二人に賞賛の声があがった。

ダンスを踊りながらフェルゼンが話しかけてもオスカルは言葉を返さなかった。

  フェルゼン 「伯爵夫人、お国はどちらなのですか。私はあなたにたいへんよく似た人を知っているのです。美しい人でやはりブロンドの髪で、心優しく教養も高く、自分の思想のためには命もかけるような。普段は金モールの軍服に薫る肌を包み、さながら氷の花のように男性のまなざしを拒む。私の一番大切な美しい友達・・」
  オスカルがよろけて倒れそうになるのをフェルゼンは手首をつかんで引き寄せると、背中を支えた。
  フェルゼン 「これは失礼を・・」
  オスカルはうっとりとしてフェルゼンを見上げた。フェルゼンもオスカルの吸い込まれそうに青い瞳に惹きつけられた。
  フェルゼン 「もしや・・あなたは?」
220 オスカルはするりとフェルゼンの腕から抜けるとその場から走り去った。
  オスカル 「フェルゼンの腕が私を抱いた、フェルゼンの瞳が私を包み、その唇が私を語った。諦められる・・これで・・これで私は諦められる・・・」
  ベルサイユ宮殿、小間使いたちが慌ただしく宮殿の中を走りまわっている。フェルゼンが尋ねた。
  フェルゼン 「どうしたんです、何事です、いったい?」
  王太子が突然高熱をだしたため宮廷医師全員が王太子の部屋に集まっているのだといった。

王太子の部屋、高熱に苦しむジョセフの寝台のまわりに人が集まっている。アントワネットが必死に我が子に呼びかけていた。

  マリー 「ジョセフ、お母様はここにいます、しっかりなさい。ジョセフ・・王太子・・」
  救いを求めるように差し出された手をアントワネットが握りしめると、苦しい息の下でジョセフは父の名を呼んだ。
  マリー 「おお・・ジョセフ・・大丈夫、何も心配いりませんよ・・お父様もすぐに参ります・・すぐに・・」
  アントワネットは礼拝堂へ行くと、キリストの像の前で神に祈った。
  マリー 「神様、あの子が寂しげに陛下の名を・・ほとんど毎日私とすごしているあの子が・・私ではなく陛下に助けを・・おお・・お許し下さいませ・・罪深い私をどうか・・お許し下さい・・もし、もしあの子の苦しみが私が犯した罪への戒めならば、私は今ここでフェルゼンとはもう会わないと誓いをたてても構いません。ですから・・ですから、どうぞお許し下さい。」
230 アントワネットの頬を滂沱の涙が流れ落ちた。物陰からアントワネットを見守っていたフェルゼンは敢えて言葉をかけることはせずに、敬礼してその場を立ち去った。

ジャルジェ邸、夕刻、オスカルは紅茶を飲みながら王太子の様態についてアンドレに話していた。
  オスカル 「明け方近くなり一応、王太子殿下の高熱は下がられたそうだが、ジョセフ様はどちらかというと、あまりお丈夫ではない。今度のことが尾を引かねばよいが。」
  アンドレ 「オスカル。」
  オスカル 「ん?」
  アンドレ 「剣の相手をしてくれないか。どうも右目だけだと、遠近がつかめなくて。いざというとき剣が使えないと困るからなあ。ははは・・・」
  オスカル 「よし、任せておけ、しごいてやる。」
  オスカルは容赦なくアンドレに突きを入れていく。アンドレは剣先をかわすのに精一杯だった。
  オスカル 「どうした、しっかりしろ。」
  オスカルの笑顔が霞む。彼女はアンドレの目の異常には気がつかなかった。噴水の際までアンドレを追いつめた。
  フェルゼン 「お見事!勝負あり!はははは・・・」
240 オスカル 「フェルゼン。」
  オスカルが顔を輝かせた。
  フェルゼン 「久しぶりだね、オスカル。」
  オスカル 「本当に、しばらくだった。」
  暖炉の前でオスカルとフェルゼンは酒を楽しんでいた。
  フェルゼン

「同じベルサイユにいても私は陸軍、君は近衛。本当に、まったく顔を合わす機会がなかったなあ。」
  オスカル 「うん。」
  フェルゼン 「いったい、いつ以来だ?覚えているかい。」
  オスカル 「うん、いつからだったかな・・」
  グラスにブランデーを注ぎながら、オスカルはフェルゼンと踊った夢のような時間を思い出していた。
250 フェルゼン 「ま、ともかく、元気そうじゃないか。いろいろと噂に聞いたよ。例の黒い騎士騒ぎの事とかね。」
  オスカル 「あれは失敗だった。遂に犯人はわからずじまいだった。」
  フェルゼン 「世の中、なかなか上手くはいかないものだ。」
  オスカル 「フェルゼン、あなたの方はどうだった?どうしていた?」
  フェルゼン 「私?私には別にこれといったこともない。特別嬉しいことも、悲しいことも。」
  フェルゼンは両手に持ったブランデーのグラスを見ながら玩ぶように廻した。琥珀色の液体がゆっくりと揺れる。オスカルも同じようにグラスを廻した。
  オスカル

「そうか・・・」
 

フェルゼンはグラスから目をあげるとオスカルの顔を見つめた。
  フェルゼン 「そう言えば一月ほど前の舞踏会で不思議なことがあった。君とそっくりな女性に出会った。外国のある伯爵夫人だそうだが、あの舞踏会一度だけ、それきりもうどの舞踏会へ行ってもお目にかかれなかった。」
 

オスカルは素知らぬ顔でブランデーを飲み干した。オスカルがグラスをコーヒーテーブルに置くとその手首をいきなりフェルゼンが握った。舞踏会で転び掛けたオスカルの手首を握って抱き寄せた時のように。驚いたオスカルは咄嗟に掴まれた腕を引き寄せた。
260 挿入曲 ショック
  フェルゼン

「やはりオスカル、君だったのか・・あの伯爵夫人は・・どんなに隠そうとしても、瞬間的な身のこなしは隠しようがない。」
  あまりのことにオスカルはフェルゼンから顔をそらすと、その場から逃げ出した。コーヒーテーブルが倒れて、グラスの破片が床に散った。フェルゼンは庭に出るとオスカルを探した。オスカルは厩舎の前にいた。厩舎の扉に顔を伏せて、オスカルはフェルゼンの顔を見ようとしない。その背中にフェルゼンは語りかけた。
  フェルゼン

「オスカル、はじめて会ったときから、君が女性だとわかっていたら。」
  オスカル 「何も言うなフェルゼン、私に何も言ってはいけない。私の気持ちはもう、とっくに整理がついているんだ。この世に愛はふたつある、喜びの愛とそして・・そして・・苦しみの愛だ。」
 

オスカルは泣いていた。肩を震わせる彼女に語りかけるフェルゼンの頬もまた涙に濡れていた。
  フェルゼン 「いいや、オスカル、この世の愛はたったひとつ、苦しみの愛だけだ。」
  オスカル 「いつかは・・こんな日が来ると思っていた。これで終わりだフェルゼン、お別れです。」
  風が冷たく二人の周りを吹き抜けていく。
  フェルゼン 「忘れないでくれ、オスカル。君は私の最高の友人であったことを。そして私もまた君の最高の友人であろうと精一杯努めてきたことを。」
270 オスカル 「忘れません・・決して・・」
  フェルゼン 「さようなら、元気で・・」
 

オスカルは振り返ると立ち去るフェルゼンの後ろ姿を見送った。
  オスカル 「神よ・・フェルゼンにご加護を・・そしていつか喜びの愛を彼にお与え下さい。」
  ジャルジェ邸、オスカルが暖炉の前の椅子に腰をかけて炎を眺めている。帰宅したアンドレはオスカルがまだ起きていたことを知り、驚いた。
  オスカル 「どうしたアンドレ、ばあやが心配していたぞ。」
  アンドレ 「オスカルこそどうした、眠れないのか。」
  オスカルはアンドレの質問の真意を測るようにその顔を見つめた。
  アンドレ 「おいおい、暖炉の火が消えかかっているじゃないか。」
  アンドレは暖炉を覗くと、火を掻きたてた。
280 オスカル 「アンドレ、」
  アンドレ 「ん?」
  オスカル 「私は近衛を辞める。」
  暖炉の炎がオスカルの顔に陰影を投げかけ、ちらちらと揺れていた。

ベルサイユ宮、オスカルはアントワネットの御前に伺候している。

  マリー 「オスカル、今何と言ったのですか。」
  オスカル 「近衛連隊長の任を解いて頂きたいのです。何とぞアントワネット様から辞令を。」
  マリー 「どういうことですか、訳を・・訳を、オスカル。」
  オスカル 「近衛隊以外ならば国境警備隊でも、海軍でもどこへでも参ります。何とぞ。」
  マリー 「訳をおっしゃいな、オスカル。」
  オスカル 「オスカル・フランソワ、最初にして最後のわがままでございます。どうか、お聞きとどけを。」
290 マリー 「オスカル、あなたが望むならすぐにでも将軍の地位を用意します。ですから、訳を。近衛を辞めたいというその訳を。」
  オスカル 「お許し下さい。どうしても訳は申し上げられません。ただ、これだけは信じて下さい。たとえ、近衛を退いてもアントワネット様への思いはこのオスカル、変わろうはずはございません。」
  N どうしても理由を話そうとしないオスカルにアントワネットは根負けした。
  マリー 「仕方のないオスカル。わかりました、考えてみましょう。」
  オスカル 「ありがとうございます王后陛下、オスカル、心より感謝いたします。」
  N 夕刻、川縁の草原でオスカルが馬を操っている。アンドレは彼女を見つめながら思った。
  アンドレ 「なぜだオスカル、なぜ近衛を辞める。フェルゼンとの決別の辛さに耐えきれずにか。フェルゼンの愛する人、アントワネット様のお側から逃れたいためか。逃げて逃げ切れるものならオスカル、俺だってとうにおまえのそばから逃げ出していたぞ。」

「おまえがもがけばもがくほど、俺は、俺は・・」

  N 二人は馬を引いて厩舎へと戻ってきた。
  オスカル 「アンドレ、この壁の傷を覚えているか。」
  アンドレ 「ああ、覚えている。俺がはじめてこのお屋敷に来たころ、二人で背丈を測りあった後だ。」
300 オスカル 「23年前だ。私がまだ自分をてっきり男だと思いこんでいたころだ。まだ愛することも恋することも知らなかった。男として育てられた私だ。これからの一生、より男としての人生を送ったとしても何の不思議もあるまい。だから私は近衛を辞める。」
  アンドレ 「オスカル。」
  オスカル 「男として生きたい。女も甘えも忘れさせるほど男でなければできない任務につきたい。一兵卒でもよい。銃を持ち、川を渡り敵と戦う。恋も愛もないぎりぎり命を懸けたそんな日々を送りたい。私はより男として生きたい。私は自分を男だと信じていたあの頃に戻る・・戻ってみせる・・」
  N その夜、オスカルは自室でピアノを弾いている。サンルームの椅子で微睡むアンドレに祖母が声をかけた。
  乳母 「アンドレ、アンドレ。」

「おまえ今日の昼間、ラソンヌ先生のところへ行ったんだって。」

  アンドレ 「ああ、左目をやられたときいろいろ世話になったからね。その時のお礼に花を届けたんだ。」
  乳母 「そうかい、それならいいんだけど。最近おまえ、なんか様子が変だから・・どっか悪くしたんじゃないかと思って。」
  アンドレ 「いやだな、そんなことないよ。あははは。」
  N アンドレは立ち上がると、キャビネットから酒を取り出した。すかさず、祖母が声をかけた。
  乳母 「アンドレ、飲んだくれる暇があったら、ちょっと手伝っとくれよ。お嬢様にね、お茶を頼むよ。」
310 アンドレ 「はいはい、かしこまりました。」
  N アンドレがティーセットを運ぶと、オスカルはピアノを弾きながら礼を言った。
  オスカル 「ありがとう。」
  N オスカルが紅茶を飲むのを見届けると、アンドレは部屋から出ていこうとした。
  アンドレ 「じゃあ、お休み。」
  オスカル 「アンドレ、より男として生きるためには、いつまでもおまえの力を借りるわけにはいかない。まだどこの隊へ行くと決まったわけではないが、私が近衛を辞めたらもう私の供はしなくてもよい。自分の好きなようにしてくれ。私はまず、一人で生きることから始めてみたい。お休み。」
  N 寝室へと引き上げたオスカルにアンドレが言った。
  アンドレ 「オスカル、これだけは言っておきたい。赤く咲いても白く咲いてもバラはバラだ。」

「バラはライラックになれるはずがない。」

  N オスカルは、はっとしてアンドレを振り返るとかかとを床に突き込むようにして彼に歩み寄った。
  オスカル 「アンドレ、それは女は所詮、女だということか。」
320 N オスカルはアンドレの顔に平手打ちをくらわした。
  オスカル 「答えろ、アンドレ!」

「答えろ、その答えによっては・・」

  N オスカルはアンドレのシャツの襟を両手で掴み上げて握りしめた。アンドレは自分の襟を掴んだオスカルの手首を逆に握り返した。
  オスカル 「あ・・離せ、アンドレ。」
  N 思いも寄らないアンドレの反撃にオスカルは驚くが、次の瞬間には強引に唇を奪われていた。手首を握られたまま、彼女は寝台に押し倒される。アンドレの体重がそのまま自分の身体にのしかかってきて、オスカルは恐怖した。
  オスカル 「離せ、アンドレ、人を呼ぶぞ!」
  N アンドレは力任せにオスカルのシャツを引き裂いた。肌が露わになる。オスカルは顔を逸らすと泣いた。
  オスカル 「それで・・私をどうしようというのだ・・アンドレ・・」
  N アンドレは手にしたシャツの切れ端を床に落とした。彼も泣いていた。
  アンドレ 「すまなかった。もう二度とこんなことはしないと神にかけて誓う。」
330 N アンドレは露わになったオスカルの肩にシーツを掛けてやると、部屋を去り際に呟いた。
  アンドレ 「バラはライラックにはなれはしない。オスカルがオスカルじゃなくなることなんてできはしない。20年間、おれはおまえだけを見て、おまえだけを思ってきた。愛しているよ・・いや・・愛してしまった。たとえようもないほど、深く・・」
  N オスカルは寝台に横たわり、泣きながら、アンドレの告白を聞いていた。
333 挿入曲  愛ゆえの哀しみ

ベルサイユのばら フェルゼン編 

劇  終

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